月評第119回 怖いは楽しい、楽しいは怖い
私が大学で開いているゼミでは毎回、その時期に見ることができる展覧会からひとつを選んで学生に発表してもらい、それをもとに自由なディスカッションをしている。そんななか、資生堂ギャラリーで開催中だった新進アーティストによる連続個展「shiseido art egg」から、冨安由真「くりかえしみるゆめ」展を取り上げる機会があった。
この作家については、私も審査員を務める岡本太郎現代芸術賞で今年、特別賞に選ばれたばかりだったので覚えがあり、資生堂ギャラリーでの個展も始まってまもなく足を運んでいた。地下の空間を小部屋に区切った薄暗いしつらえは太郎賞展の延長線上にあり、もっと規模の大きいものだったが、なにより意外だったのは来場者の多さだった。アートエッグはこれまでも見てきていたが、いくら銀座が観光客で賑わいを増しているとはいえ、未知の新人に発表の機会を与えるという趣旨からすると、にわかには信じられないくらいだった。
しかしじつはそれでもまだ、私が見たときはだいぶマシだったようなのだ。ゼミでの発表の際、会期がだいぶ押してから見に行った学生たちが声をそろえたのは、人が多すぎてきちんと見られなかったということだった。さらに聞いて驚いたのは、たんに混んでいるのではなく、入場を待つ列が地下へと降りる長い階段はおろか、建物の外にまで延びて、最大で2時間待ちというような状態だったようなのだ。国公立の美術館で開かれる、新聞社が大々的に宣伝する話題の展覧会であればそんなこともあるだろうが、現代美術の新人展でこういうことが見られるのは、とても珍しいことだ。いったい、何が起きていたのだろう。
すぐに思い浮かぶのは、冨安の展示が無人の部屋に仕掛けられた人為的な心霊現象を扱っていることから、一種のエンタメ施設、もっとはっきり言えば「お化け屋敷」のたぐいと見なされた可能性だ。事実、私が見に行った際も、女子高生らしきグループやカップルがけっこう目立っていて、普段見かける現代美術に関心がありそうな層とはかけ離れていた。それならば長蛇の列にも納得がいく。
ハリウッド映画や大規模テーマパークも含め、一般に純粋な美術の体験と区別されてエンターテインメントと呼ばれる分野の特徴は、人間の理性よりも感情、具体的には喜怒哀楽に直接、訴えかける点にある。裏返せば、純粋美術であっても喜怒哀楽のような夾雑物を伴う表現ほど、判断力に根ざす美的経験よりも劣ったものと見なされがちということになる。昨年、西洋美術の名品を「怖い絵」と銘打って打ち出した展覧会が、観客動員数では記録的な延びを示したにもかかわらず、専門家筋からは決して評判が良くなかったという話も、似たような先入見に基づくものだろう。
しかし言い換えれば、そのような嫌悪の反応自体が、実際には合理的な判断や検証を経ることのない、非理性的で動物的な─つまりは心霊的な─反射に近いものなのだ。同様に冨安の作品も、現代美術筋からは、必ずや「お化け屋敷とどこが違うのか」という批判が投げかけられるはずだ。けれども私は、そのような声が上がること自体が、心霊現象全般を扱う際に必然的につきまとう常套的な現象であり、そうした反応が引き出されるのは、じつは冨安の作品が一定の効果を上げている証左なのではないかと感じる。
むろん、作家の目的がお化け屋敷づくりにあるはずはなく、その関心は、心霊の名で呼ばれ、ほぼ自動的に非現実へと振り分けられてしまうそれらの「現象」が、夢などの神経生理学的な現実と比べたとき、実際にはどの程度、非現実的であるのか、もしくは、私たちが現実として認識している世界が、どれほど確固としたものでありうるのかを、心霊現象を人為的に起こすインスタレーションを通じて、逆に検証し直すことにあるのだろう。
例えば、アメリカの哲学者で『宗教的経験の諸相』などの著作で知られるウィリアム・ジェイムズは、プラグマティズムの観点から、心霊現象について、その有効性に一定の理解を示している。しかしここでは、この展覧会について、やや異なる観点から当たってみたい。それは、先のゼミでも結果的に多くの話題を占めたのが、人はなぜ、それほどまでに「怖い体験」に惹かれるのだろう、ということだったからだ。いや、この言い方は正確ではない。現実の世界で進んで怖い思いをしたい人など、いるはずがないからだ。では人はなぜ、長蛇の列をなしてまで「怖い体験」を疑似体験したがるのか。
エンターテインメントが全般的に喜怒哀楽の疑似体験であることはすでに触れたとおりだが、よく考えてみれば、喜怒哀楽という熟語に「怖」は入っていない。喜怒哀楽と比べたとき、怖い思いは差し迫った危機感がはるかに強く、時と場合によっては命の危険に直結しかねないからだろう。その意味では、怖い思いをするのは、哀しくて涙を流したり、楽しくて大笑いするのとは根本的に違っている。
生命を維持するためのサインとして、怖い思いは、可能なかぎり避けられなければならない。にもかかわらずなぜ、それが擬似的には娯楽となりうるのか。絶対に安全だとわかっているからだろうか。だが恐怖を扱う以上、心身的に絶対の安全というのはありえない。だいいち100パーセント安全なのであれば、恐怖の感情は成り立たない。
冨安の場合、そのことを解く鍵は展覧会のタイトルそのものにあるように思う。「くりかえしみるゆめ」とはおそらく、夢の持つ反復的な強迫性に負うものだろう。繰り返される現象は夢であろうと現実であろうと、必ずその予兆を持っている。反復は既視感を伴うからだ。実際、冨安が扱う心霊現象も、そうした既視的な予兆性に限られており、怪物や幽霊、お化けがそれ自体として出てくるわけではない。つまり、冨安の展示は本当に怖いという前に「くりかえしみるゆめ」のように「なつかしい」。ただし、なつかしいからと言って安全とは限らない。そのあたりの傾斜がどちらにかかるかによって、彼女のインスタレーションの成否もおそらくは問われるはずだ。
今回の展示に関しては、私が足を踏み入れた時でさえ人が多すぎたこともあり、その成否を見届けることができなかった。もし2、3人だけで体験することができたなら、この展示はまったく違う相貌を見せてくれるはずだ。現状では「怖いは楽しい」に留まっている本作を、アートの側へと、わかりやすく言えば「怖いは楽しい、楽しいは怖い」へと傾かせようとするのであれば、限定的であっても、そうした機会を設けることは必須であるように思われる。