ブランクーシとパリ
ブランクーシがパリに着いたのは1904年、彼が28歳のときだった。故郷ルーマニアで2つの美術学校を卒業しているが、さらにエコール・デ・ボザールで腕を磨くためだった。アントナン・メルシエに師事し、サロンに出展。そこでロダンに見染められ助手となるが1ヶ月ほどで独立すると、1907年から08年にかけて、《祈り》や《大地の知恵》を制作した。前者はロダンの影響を受けたブロンズ鋳造だが、モデルをできる限り簡素かつ印象的なかたちに落としこんだ。後者ではモデリングを放棄し石材を直彫りすることを選びながら、やはり個別的な要素を取り除き主題が示す普遍的な形態をめざした。
芸術の都に集まる様々な美術作品にもふれながら、同時代のアーティストや文化人との出会いを重ねていく。ルーヴル美術館やギメ美術館の古代コレクションや非ヨーロッパの芸術(とくにキクラデス文明やアジア・アフリカ美術など)、ゴーギャンのタヒチを題材とした作品群、ドランによるキュビスムなども参照し、モディリアーニ、レジェ、ルソーなどと交友を持つ。