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2023.3.11

ナン・ゴールディン、闘い続けるアーティスト

アーティスト、ナン・ゴールディンが世界的な美術館群のスポンサーである大富豪サックラー家を相手取って起こした抗議運動。姉の死とエイズのエピデミック、そしてオピオイド危機……抗議運動の展開に創作の軌跡を絡め、ゴールディンという一人の人間を描き切るドキュメンタリー映画「All the Beauty and the Bloodshed」。ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞、アカデミー賞長編ドキュメンタリーノミネート作品が、“因縁の地”ベルリンで公開された。

文=河内秀子

ケーテ・コルヴィッツ賞の授賞式でのゴールディン Photo © Moritz Haase
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 ナン・ゴールディンとベルリンのつながりは深い。1980年代には何度も西ベルリンに住む友人を訪れ、1991年にはDAAD奨学金を受け、1年のつもりが3年間以上ベルリンに住んだ。ゴールディンは当時を「人生の最良の時期だった」と振り返っている。アメリカに先駆けてベルリンでアーティストとして認められて展覧会を開催、カタログも多く出版された。しかしそれだけではない。じつはゴールディンがオピオイド中毒になったのは2014年、ベルリンで手術後に処方された鎮痛剤がきっかけだったのだ。

 2018年1月、ゴールディンは米アート誌『ARTFORUM』で、自らのオピオイド中毒の体験を綴った記事と写真を発表した。

 「私とオキシコンチン(オピオイド鎮痛剤)との関係は、数年前にベルリンで始まった。もともと手術のために処方され、指示通りに服用したが、一夜にして中毒になってしまった。いままで出会ったなかでもっともクリーンな薬物。ベルリンでは処方箋を入手するため医者に働きかけ、締め出された後はFedExに頼った。うまく行ったが、いつしか多くのドラッグと同じく効果を失ったので、私はストローを手にした」。 

 1990年代にクリーンな状態で創造的な時を過ごせた!と懐かしんでいたベルリンで、まさにそのコメントをした後に期せずして中毒に陥ってしまうとは、なんという皮肉だろう。メトロポリタン、グッゲンハイム、テート、ルーヴル……世界各地のミュージアムに多額の寄付を行っているサックラー一族が、このオピオイド鎮痛剤を処方薬としてプッシュした製薬会社パーデュー・ファーマ社の創業者であり、全米で40万人以上が亡くなるオピオイド危機の背後にあると知ったゴールディンは、彼らの責任を追求するために行動を起こす。

Trixie on the cot, New York City, 1979
Cibachrome print (41 x 60 cm)
Courtesy of the artist and Marian Goodman Gallery
© Nan Goldin

 ローラ・ポイトラス監督のドキュメンタリー映画「すべての美と流血(All the Beauty and the Bloodshed)」は、2018年3月10日から始まる。メトロポリタン美術館の目玉である、デンドゥール神殿が展示されている「サックラー翼」。ゴールディンと活動家のメンバーたちはここで、「サックラーは嘘つきだ!何千人という人が亡くなっている!(Sacklers lie, thousands die!)」と声をあげ、オピオイド鎮痛剤のケースを神殿の前の池に投げ込んだ。

 しかしこの映画は、ゴールディンの抗議運動を描く映画ではない。1960年代から現在に至るまでの彼女の膨大な作品群と抗議運動を絡めて、ナン・ゴールディンというひとりのアーティストとひとつの時代を描き出すものだ。映画は、現在からゴールディンの子供時代にまで時計の針を巻き戻す。

 自分を可愛がってくれた姉バーバラの自殺。その背景には母の存在があり、このままでは姉と同じ道をたどると医者に言われたナンは、14歳で養父母に預けられた。言葉を発さずにいた彼女は後に親友となるデイヴィッド・アームストロングと出会い、写真という言葉を得る。家族を渇望していたゴールディンの新たな家族、そして被写体、ミューズとなったのはクィアのコミュニティだった。

Jimmy Paulette and Tabboo! in the Bathroom, 1991
Cibachrome print (72,6 x 101,6 cm)
Courtesy of the artist and Marian Goodman Gallery

 圧巻なのは1980年代から始まるエイズ危機、そして現在のオピオイド危機に対する、彼女の取り組みの関連性が描かれるエピソードだ。ゴールディンは1989年に、エイズをテーマにした展覧会「私たちの消滅に対する証言者(Witnesses Against Our Vanishing)」をニューヨークで企画する。エイズをテーマとした最初の大規模グループ展は、エイズに襲われたコミュニティを可視化して言葉を与え、また国のアート支援に関する激しい論争を引き起こした。

 ゴールディンの友人であり、1992年にエイズで没したアーティスト、デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチは、この展覧会のカタログに序文として「Postcards from America: X-rays from Hell」を寄せている。このなかで彼は、医療施設や社会制度における人種差別や貧困差別や、性的表現といえば白人のストレート男性しか対象にしていないことなど、ミュージアムや文化支援のなかでの差別、不可視化にも触れた。本当の意味で"病んで“いるのは誰なのか。偏見による烙印を押され、社会から存在を無視された人たちとともに、巨大な権威ある組織の責任を問うー現在の抗議運動につながるゴールディンの姿勢が垣間見える。

Nan Goldin Smokey car interior, New Hamsphire, 1979
Cibachrome print
Courtesy of the artist and Marian Goodman Gallery
© Nan Goldin

 この映画の上映に先駆けて、ゴールディンはケーテ・コルヴィッツ賞の授賞式に登壇した。ベルリンの「アカデミー・デル・キュンステ」では受賞に関連し、1960年代から現在に至るまで約60点の写真を展示。ここで展示されている多くの作品の制作背景を、映画のなかで見ることができる。また、ベルリンの新ナショナルギャラリーでの大規模な回顧展も予定しているとの発表もあった。ベルリンとナン・ゴールディンの関係は、より良いものになっていきそうだ。

ケーテ・コルヴィッツ賞の授賞式でのゴールディン Photo © Moritz Haase
Bed, Paris/New York, 1992–2009, 2019
Archival pigment print (114 x 167 cm)
Courtesy of the artist and Marian Goodman Gallery
© Nan Goldin