「旅情詩人」とも称され、大正から昭和にかけて活躍し数々の風景木版画を残した版画家・川瀬巴水(1883~1957)。その大規模回顧展「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」が新宿のSOMPO美術館で開幕した。
江戸時代に誕生した浮世絵は、明治に入り衰退していった。これを憂えた版元・渡邊庄三郎は、絵師・彫師・摺師の三者が協働する伝統的な木版技術の復興と版画の普及を目指し、新しい時代の浮世絵版画「新版画」を提唱。巴水は、こうした「新版画」を牽引する人物のひとりであり、本展はその木版画の世界を多角的に紹介するものだ。
展覧会は、「版画家・巴水、ふるさと東京と旅みやげ」「『旅情詩人』巴水、名声の確立とスランプ」「巴水、新境地を開拓、円熟期へ」の3章構成。巴水の画業を、版画を制作し始めた頃から関東大震災が起きるまでの第1章、震災後に作風の変化が見られる第2章、そして太平洋戦争前後から晩年までの第3章に分けて、約280点の作品とともにたどる。
幼少の頃より絵を描くことを好み、画家を志した巴水。27歳で鏑木清方(1878〜1972)の弟子となり、同門の伊東深水(1898〜1972)の風景版画「近江八景」に感銘を受け、版画制作へと向かった。1918(大正7)年には庄三郎の協力を得て、渡邊版の版画家としてデビューした。
第1章は、「塩原三部作」と呼ばれる巴水の最初期作品から始まる。初期作品では、鋸の歯のようにギザギザした輪郭線や抑揚をつける線が特徴的であり、浮世絵で忌避されていた、渡邊版の独特な手法のひとつである「ザラ摺」を用いて実験的な作風を発展した。
デビューして好評を得た巴水は旅に暮らし、行く先々での景色を写生し、東京に戻っては版画の制作に取り組んだ。これが結実したのは、風景版画の連作『旅みやげ』だった。
『旅みやげ第一集』では、巴水が東北の青森県や宮城県、北陸地方の石川県の金沢や福井県の小浜を旅行して写生した、月夜、水辺、雨などの風景がモチーフ。2年後に制作された第二集では、巴水が関西の京都や奈良、四国の広島や岡山、北越地方の佐渡、小千谷、直江津などを巡り、帰京して制作した28図を収録している。
また同章では、東京の名所だけでなく、何気ない日常の風景を描いた『東京十二題』や、四角の紙に円形の枠を配し、そのなかに風景を描くという挑戦的な連作『東京十二ヶ月』などを見ることもできる。
1923年の関東大震災により巴水の自宅が全焼し、描き溜めてきた写生帖も灰と化した。そんな逆境のなか、庄三郎は巴水の背中を押して、ふたたび旅へと送り出した。第2章は、震災の前後で巴水の画風に起きた変化に注目するものだ。
震災後に初めて手がけた『旅みやげ第三集』は、これまでの旅行で得た感覚と旅先での新鮮な写生をあわせることで、巴水様式を確立させたもの。『東京二十景』では、震災直後から復興に向かっていく時期の東京を描いており、なかには《芝増上寺》や《馬込の月》など巴水の代表作も含まれている。
1930年代、「画・彫・摺」の作業を分担する新版画と、西洋の技法を用いて、画家がすべての工程を行う創作版画をめぐる論争が起こった。新版画運動の中核をなした庄三郎と巴水は矢面に立たされ、巴水は数年、スランプに陥った。
第2章に展示される『新東京百景』は、この時期に企画されたもの。6図が制作された時点で未完のまま終了した同シリーズでは、巴水の苦悩や模索をうかがうことができるだろう。
1939年に画家仲間から朝鮮半島への旅に誘われ、作風のマンネリ化に悩んでいた巴水には、制作の新風が吹き込まれた。第3章では、巴水が新境地を開き、円熟の境に入った時期に着目する。
『朝鮮八景』や『続朝鮮風景』は、巴水が初めて目にする異国の風景に魅了され、その経験に基づいて制作した連作。また、1952年に文部省は木版画がスケッチの段階から完成するまでの工程を記録するため、巴水に新作の制作を依頼。《増上寺之雪》はその背景下に生まれたもの。巴水の馴染み深い増上寺の雪景色を題材に、巴水の妻と娘をモデルとした本作は、9枚の版木を使って42度の摺りを重ねた緻密な画面で構成され、晩年の作品においてももっとも特筆すべき作品だ。
本展では、海外での巴水に対する評価の変遷も紹介。関東大震災の後、巴水の作品が海外に多く輸出されるようになり、1930年にはアメリカ・オハイオ州のトリード美術館で開催された「現代日本版画展」に92図を出展し、そして第二次世界大戦終戦後には海外から日本を訪れる人のあいだでその作品の人気が高まるなど、巴水の版画は世界中の多くの人々を魅了した。
とくにアップルの共同創業者であるスティーブ・ジョブズは、20代後半のときから巴水の作品を収集していた。本展の最後には、「スティーブ・ジョブズと巴水」のコーナーが設けられており、渡邊木版美術画舗所蔵から、ジョブズが購入したとされる作品と同じものが集まっている。