看板が指し示す「ねじれ」と「距離」。中﨑透インタビュー

茨城・水戸市のARTS ISOZAKIで開催中の個展「Human Landscape」で、ライトボックス(電光看板)を用いた作品をさらに発展させたアーティストの中﨑透。美術家・美術批評家の石川卓磨がこれまでの活動やその表現の現在地、今後の展望について聞いた。

聞き手=石川卓磨 構成・写真=中島良平

中﨑透、ARTS ISOZAKIにて

 茨城・水戸市のARTS ISOZAKIで開催中の個展「Human Landscape」で、ライトボックス(電光看板)を用いた作品をさらに発展させたアーティストの中﨑透。古民家を改装し、自ら運営に携わる「水戸のキワマリ荘」と「中﨑透美術館準備室(仮)」では「コネクション・コレクション」と題して自身が所有する作品コレクション展も開催中の彼に、武蔵野美術大学大学院時代からの友人であり、美術家・美術批評家の石川卓磨がこれまでの活動やその表現の現在地、今後の展望について聞いた。

──今回の展示に至る経緯として、中﨑さんの代表的な作品フォーマットである看板というコンセプトにたどり着いたきっかけと時期について教えてください。

 2001年の1月に大学4年の卒業制作があったのですが、「現代美術って何をやってもいいよ」と言われながらも、いったい何をもって美術になるのかと、ドツボにハマりかけたことがあるんです。そのときにデザインと美術という要素が頭に浮かんで「デザインじゃないものであれば美術になるのかな」といったことを考えました。デザインの契約ではあり得ないような条件の契約書をもとに、アベコベな看板ができたら、それは美術作品になるのではないかと。

中﨑透、ARTS ISOZAKIにて

──通常だったら自分の作品の世界観をつくりあげることを重視するところを、自分のものではないインフォメーションを看板にして作品化する発想ですね。

 そもそも卒業制作展では、展示案内の冊子が配られていたのですが、どこで誰が展示しているのか、といった情報が全然整理されていませんでした。だから、自分が確保した展示場所を、他人の展示の宣伝のために売り払うみたいなかたちがおもしろいと思ったんです。みんなで壁を白く塗ったり、頑張って学校全体を美術館に見立てて卒業制作展を開催するわけですが、あえてダサい看板で展示情報を宣伝することで、入った瞬間に「ここは学校だ」とお客さんに感じさせちゃおうという、そんなひねくれた欲望が入り混じっていました。

──大学院の修了制作のときには看板の作品に加え、《マウグラ2003》という作品で選挙カーの形式を踏襲したパフォーマンスを駅前などでしていますね。そこには、美術の制度の外にいる人たちにも向けた広報活動という意図があったのでしょうか。

「数百人規模のグループショーである卒業制作展の広報を依頼されたら」という、架空の依頼をもとにねじれた広報活動をしていたのですが、イメージ的にはクリストとジャンヌ=クロードが何かを梱包するみたいな感じで、卒制展という大学全体のできごとをひとつの情報として梱包したいという欲望がありました。そこから生まれたチラシがミニスカートのキャンペーンガールの手で配られて、通りすがりのお母さんとかが受け取って帰ると「今年のムサビの卒制展のチラシはこんなにダサいのね」って思ったりするわけです。実際にはオフィシャルのチラシではないのですが、情報は本当だから間違いを突っ込むこともできないわけです。その「ねじれ」のようなものがおもしろいと思ったんですね。

中﨑透《マウグラ2003》(2003)のパフォーマンス

──広報活動や広告が情報の誤読や誤解を引き起こすこと自体が作品になるようなイメージですか?

 学生時代はそこまで言語化はできていなかったけど、あとから考えるとそういうことだったんだと思います。そのときはオフィシャルのポスターを公募でつくっている学生もいたのですが、「マウグラって何だ?」って不思議がっていたというのを人伝に聞いたこともあります。いろんな人のなかでイメージが誤読されていく。フィクションがある種、現実と等価になる瞬間みたいなものをつくれるんじゃないかと思っています。

──インフォメーションの作品化に対する関心とはどのように生まれたのでしょうか。

 チラシとかポスターって、例えば演劇であれば公演の日程が書かれていて、その会期が終わった瞬間にポスターの寿命が切れるわけですよね。でも、大学図書館の展示室で巨匠のポスター展が開催されていたのを見て「会期後には会期中とは異なる方法で存在するんだ」みたいなことを考えたことがあったんです。美術館に並ぶ作品が「死体である」みたいに言われることもありますが、作品が持つ新鮮さがなくなって、保管される何かへと移り変わる時間軸のようなものが、すごく明確化されたような感覚でした。

──通常の現代アートの考え方として、レディメイドなどがわかりやすいですが、日常にあるものの機能や有用性を剥奪することで、美術作品になるというものがあります。中﨑さんの場合は、インフォメーションやプロジェクトのための実質的な機能を持った造形が、プロジェクト終えた後に美術作品としてのオブジェとして「第二の生」が与えられるという考えなのですね。

 例えば信号機って、工事のときに地面に降ろされると、すごく大きい造形物だということがわかるじゃないですか。でも、普段街でそれを見るときは、赤青黄の記号としてしか見ていない。看板も同じで、質量のないものとしてみんなが受け取っているものを、もう一度質量を感じさせる存在として、配置するようなつくり方を続けています。

──今回の「Human Landscape」の出品作品は、看板というよりも、看板の支持体であるライトボックスそれ自体が彫刻化しているととらえてもいいのでしょうか。

 この3年ぐらい、何も描かれていない色面だけのライトボックスのシリーズの制作を試みてきました。電光看板なのですが、屋根のかたちに見えたり、階段に見えたり、抽象形態でありながら何かのかたちを持つものをつくりつつ、そのうち人体をつくってみたいと思っていたんですね。ライトボックスを使った作品自体が、看板の持つ実体とイメージのズレをテーマにしています。例えばビールのラベルと中身の関係を人間に置き換えれば、自分が思う自分と人から見られる自分の関係に似ています。本物の自分はどこにあるのか、といったメタファーとして、看板を使っていたわけです。

中﨑透「Human Landscape」展示風景 撮影=大谷健二 (c)ARTS ISOZAKI

──アイデンティティの比喩としても看板が用いられているんですね。

 そうですね。でもいっぽうで、ライトの部分が骨格的な人体の線を示して、そこに表面が発生することを美術的な意味で考えてみたんです。ライトボックスを使って人体を表現したものが、ものすごくオーソドックスな彫刻に見えたらおもしろいんじゃないかと。美術史的に伝統的なポーズを使うことなどを試行錯誤して、今回展示している3体の彫刻が生まれました。

──空間に入るとウェルカムガールが出迎えてくれて、すぐその後ろに寝転がったポーズの立体がありますね。

 寝ている裸婦像みたいな、オーソドックスなポーズをライトボックスでつくって真っ向勝負をするようなイメージでした。ウェルカムガールのポーズは、ただの黄色い裸婦像にはせず、ビキニの形がいいなと思ってこの構成にしました。立つ、座る、寝るの3つの普遍的なポーズを組み合わせて、あとはストライプの模様と単色の裸婦という対比も想定しました。

──作品に通電や発光という構造や現象を組み込むことは、鑑賞者の目を引きつける意味があるだけでなく、生命的なものなど比喩的にもとらえられると思います。中﨑さんは自作における蛍光灯の役割をどのように考えていますか。

 看板制作を始めた頃から、設営のときには並べて点灯させ、すべてをチェックをするプロセスがあります。その状態を見るたびに、「ダン・フレイヴィンみたいで美しいね。これだけで完成としてもいいんじゃないかな」と口癖のように20年ぐらい言い続けてきました。だから、純粋に蛍光灯の光の美しさみたいなのはあると思います。

 あと、例えば震災直後は電気を使うことがまた違う意味を持ったし、いまは蛍光灯というメディウム自体がノスタルジーをはらむようにもなっています。表面的に蛍光灯の光がどう見えるかと同時に、その裏側にもいろいろ読み取れるんじゃないかとも思っていて、観客の立ち位置を作品の前から別のところに連れて行きたいみたいな感覚があるのかもしれません。

──赤瀬川原平の《宇宙の缶詰》(1964)的なものでしょうか。

 そうですね。裏表をひっくり返してしまうみたいな。

──中﨑さんはかなり早い段階からホワイトキューブの外に出ていく志向が強かったように思います。そのいっぽうで、今回のようなギャラリーや美術館での展示も積極的に行っていますよね。

 どちらも好きなのですが、たまたま卒制展でつくった初めての作品が野外だったのは良い偶然だったように思います。そもそも看板は外にあるものなので、作品がそのロケーションに擬態するイメージがあって、そこで観客が違和感に気づくような構造です。ホワイトキューブで思考することと、美術空間ではない空間で思考することとのあいだを行き来しているような感覚です。

中﨑透「Human Landscape」展示風景 撮影=大谷健二 (c)ARTS ISOZAKI

──中﨑さん自身がキュレーションなどを行う実験的なスペースとして「遊戯室」というスペースの運営を試みたのもその一環ですか。

 2002年に大学内に本当に小さなオルタナティブスペースを「ウェアハウス・アートプロジェクト」という企画で、一緒につくりましたよね。そのときにバラバラに制作している友人や先生などが、場所があることで行き来が生まれるというのがすごくおもしろくて、それがきっかけとなって05年から「中﨑透遊戯室」というスペースを始めました。

 その後も「Nadegata Instant Party」を3人(中﨑透+山城大督+野田智子)で結成して自分ひとりではやらなかったことができるようになったり、「プロジェクトFUKUSHIMA!」のようにプロジェクトベースで自分がつくらずに作品を制作するようになったりと、自分で手を使ってつくることとの距離感をつねに考えています。

 いまも「水戸のキワマリ荘」というシェアスペースの中にギャラリーを持っていて、さらに1年前ぐらいに購入した古い農家も改築して展示に使おうと思っています。仕事が来るペースや納期などはバラバラですが、そのようなスペースがあれば自分がやるべき仕事を自分のタイミングでできます。改築中の農家は「中﨑透美術館準備室(仮)」として、まずは自分のコレクション作品を発表する展示に使用します

──中﨑さんが2007年に東京から水戸に拠点を移すと聞いたときは、それまで通りの活動ができなくなるのではないかと思いましたが、僕の予想は完全に裏切られました。むしろ、東京ではできないような活動も含め、それまで以上に活発に展開していったと思っています。また、その活動とリンクするように、地方での芸術祭などが本格的に活発化していった印象があります。このような時代状況の変化をどのように見ていましたか。

 博士課程で東京にいたころから、滞在制作を色々なところで行なう機会が増えていて、東京で家とアトリエを借りながら、数ヶ月不在にすることが無駄だと思ったのが最初です。また、青森の滞在制作では藤井光さんと同じ部屋で共同生活をする機会があり、こんな社会派の作家が同世代にいるんだって思ったり、福岡拠点のキュレーターの遠藤水城さんと出会い、いろんな場所でアクションが起こることを感じられた経験は、水戸を拠点にしようと思うきっかけとして大きいです。

──個人での制作からプロジェクトベースまでの幅広い活動を各地で行ってきたモチベーションとはどのようなものでしょうか。

 作家として興奮できるような瞬間がいくつかあるから続けているのだと思うのですが、ひとつは単純に、自分が「しめしめ」と思えるようなものがつくれたときが好きだからです。それと、プロジェクトなどでいろいろな人と関わると、小さいながらもその人の人生が動くと感じられるような瞬間に出会えることがあります。それはこの仕事をしてるから出会える貴重な瞬間だと思うし、自分が手がけた作品が誰かと関係を結ぶことを想像できることが、制作を続ける動機になっているのかもしれません。

編集部

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