「パラレルな美術史」とは何か?
小沢剛が見せる「不完全」展

《なすび画廊》や《ベジタブル・ウェポン》など、ユーモアと批評性ある作品を手がけてきたアーティスト・小沢剛が関東では14年ぶりとなる大規模個展「不完全ーパラレルな美術史」を千葉市美術館でスタートさせた。このタイトルに込められた意図とは何か? 本人に話を聞いた。

聞き手=原田裕規(美術家) 撮影=林ユバ(※をのぞく)

小沢剛

|「俺は変わってないぞ!」と言いたいけれど、変わったのかもしれない

──まずは本展タイトルになった「不完全」という言葉について、お聞きしてもよろしいでしょうか?

 岡倉天心の『茶の本』で「不完全」という言葉が使われています。読む時期によって印象も変わるもので、20年前に読んだときには何も引っ掛からなかったのに、今の時代に読むとビシビシくるんですよね。「不完全」という言葉が重要に思えたのは、ぼく自身や人間全体がやってきた失敗を肯定して楽にしてくれるように感じたからです。いまの時代は人間の危機に向かっているからこそ、そういう言葉が心を柔らかくしてくれるように思えて素晴らしいと思いました。

──ご自身のそうした変化には、周囲の変化も影響していますか?

 自分自身のポジションや家族のことなど、あらゆる事柄がのしかかってくるので、ものの見え方が変わらざるをえないことはあります。いや、「俺は変わってないぞ!」と言いたいけれど、変わったのかな(笑)。現代美術家特有のものだと思いますけど、断固として普遍的であるというよりも、時代の呼吸に対応しながら作品が変化していくほうが自然だと思っていますね。

──小沢さんは2012年から東京藝術大学の教授になられていますが、そうした変化は影響していますか? 今回の展覧会のメインの新作《不完全》(2018)は、藝大の大石膏室が着想源にあるなど、藝大の歴史とも関わりの深い作品です。

 大上段には構えていないけれど、藝大の持つ資料や情報にアクセスしやすいことが大きいと思います。そこにいるからには使わない手はないし、自分の興味もそれと一致しているからね。上野校舎に行けば100年前の人たちの銅像がそこかしこに建っていて、近代という歴史にアクセスしやすくて身近に思えちゃう。

小沢剛 不完全 2018 撮影=椎木静寧(※)
小沢剛 不完全 2018 撮影=椎木静寧(※)

──それでは、絵を描くことについてはいかがでしょうか? 本展では《金沢七不思議》内の「ハントンライス」のペインティングや、戦争画をモチーフにした新作《す下降にンバンレパ兵神神兵パレンバンに降下す》(2017)など、藝大油画科出身の小沢さんが絵画に回帰しつつあるような新作も見受けられました。

 描くことが好きなんだろうね。だけど絵に没頭するあまり何も見えなくなることがあって、それが嫌なんです。描く世界にのめり込み過ぎて客観性がなくなっていくような感覚。それで何を言っているのかわからないような絵描きが多い印象ですね。具体的な批判対象はないけれど、漠然と「近代的でステレオタイプな『自由な魂』を持った絵描きさん」が嫌だなと思います。

「す下降にンバンレパ兵神神兵パレンバンに降下す」シリーズの展示風景

──そのイメージは、小沢さんが最近取り上げられている日本的な近代の画家像の典型でもありますか?

 完全にそうで、(自分が)そうなりそうなのが嫌だ。でも、もしかするとなりたいのかもしれない。それが不思議な感覚です。

──小沢さんと言えば「自らつくらない」制作態度や関係性を重視した作品のイメージが強くあります。しかし本展では、そんな小沢さんが絵画の新作を出されていたことにも驚きました。これはどのような心境の変化になりますか?

 勇気です。あまり上手じゃないし、時間もなかったので。(今まで取り組まなかった理由には)「自分は下手だし」という気持ちもあるけれど、新作の《す下降にンバンレパ兵神神兵パレンバンに降下す》では、「戦争画」という日本近代美術史上最大の事件に対して自分なりに極めてシンプルなアンサーを出すべきだと思ったからです。

「『戦争画』という事件に対してアンサーを出すべきだと思った」

──鶴田吾郎の戦争画が下図になっているこの作品は、鏡像のように、戦場で鉄砲を向ける人が自らに銃口を構えるという構図になっています。

 とてもシンプルなコンセプトだけど、戦争はそういうものだと思っています。一時的な熱狂で国がひとつになったり、勝者になって喜んだりして、瞬間的に国が沸騰することもあると思うけど、長い時間で見ればそれに対するネガティブなことは付きまとってくるんだよね。だから他者への攻撃は自分への攻撃と似ていると思います。戦争画を描いたアーティストの人生を見ても、多くはその後すごいトラウマを抱えて生きているんだよね。

「す下降にンバンレパ兵神神兵パレンバンに降下す」シリーズの展示風景

|「完全」を目指すのが人間

──初期代表作の《なすび画廊》が現行の制度を批判する作品だったのに対して、《醤油画資料館》や見世物小屋風に仕立てられた《金沢七不思議》は新しい制度を構築することに関心が移行しているように見えました。

 そうなのかもしれない。いま地球に生きている人は未来をつくる担い手だから、批判だけじゃ前に進めなくて、次の何かを示す必要があるんじゃないかなということに気が付いたからです。

《金沢七不思議》の入り口
《金沢七不思議》で一際眼を引くねぶた

──本展を締めくくる《新なすび画廊》は、「『貸画廊批判』という日本独自のローカルな問題を超えて、世界各地のアーティストとのコラボレーションへと変化して」いったと説明されています。ここにもそうした変化が表れているのでしょうか?

 同じものを見つつも、続けていくうちにもっと大きなものが見えてきて、より大きなチャレンジの方向に向かっていくという感じかな。

「新なすび画廊」の展示風景
「新なすび画廊」シリーズではアイ・ウェイウェイやディン・Q・レといったアーティストたちが参加してきた

──小沢さんによる解説文の中で、「不完全」という言葉は「より可能性が開かれた豊かな状態を示す言葉」と述べられていました。「不完全」という言葉が暗示する「豊かな状態」としての「完全」とは、「より大きなチャレンジ」につながるものなのでしょうか?

 それについてはわからない。なぜなら(「不完全」という言葉が示しているのは)プロセスだから。本当に「完全」になったときにはカタストロフが来るのかもしれないけど、それでも「完全」を目指すのが人間だと思っています。だからずっとそういう感じで(破壊と構築を)繰り返すんじゃないかな、としかぼくにはわからないです。

「それでも『完全』を目指すのが人間」

──この展覧会は2004年の森美術館での個展「同時に答えろYesとNo!」以来、関東では14年ぶりの大規模個展になります。これを経て小沢さんはどこに向かわれるのでしょうか?

 次につくるものは決めていないから、まだ分かんないね。だけど(本展でも展示されている)「帰って来た」シリーズは継続してやりたいと思っています。歴史を見ることと、日本と違う国を行き来しながらつくっていくことは継続したいので。

藤田嗣治をモチーフにしたインスタレーション《帰って来たペインターF》(2015)

──そもそも《帰って来たペインターF》(2015)や《醤油画資料館》(1999)などの「パラレルな美術史」に取り組もうと思ったのはなぜですか?

 《醬油画資料館》をつくったときに初めて美術史を作品に取り込んだんですが、最初はそれほどしっかりしたリサーチもせずにやっていたにもかかわらずすごく反応はよかったし、美術史の研究者と話しているうちに、「歴史」は向こう側にあるセピア色の世界じゃなくて自由に遊んでいいモチーフなんだなと思いました。過去の人が遺してくれたものだから、ありがたく遊ばせてもらえると思ったらすごく楽になったんです。

《醤油画資料館》の内部には醤油で描かれた古今東西の作品が展示されている

──そのときに「遊ぶ」という感覚が大事になりますか?

 そうだね。あまり重く受け止めすぎないようにしています。それによっていろいろな読み方ができたり、もっともっと自由になれたりするような気がしています。「身近に思える」という感じかな?

小沢剛

編集部

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