写真に添えた長文のエピソードで伝えたかったこと
──本展は、リアス・アーク美術館の常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」を編集したサテライト展覧会として開催しています。この常設展はこれまでにもさまざまな場所で巡回展示されてきました。一つひとつの被災現場写真と対となる、撮影時のエピソードを盛り込んだ長文のキャプションが印象的です。客観的な説明だけではなく、撮影者の所感をキャプション中で表現するなど、このような展示方法にいたった経緯を教えてください。
今回の展示は、私自身も含め東日本大震災で被災したリアス・アーク美術館学芸員たちが、2年にわたり命懸けで震災の取材をし、そこで身をもって経験した、感じた、発見したことを、地域の未来のためにどうしても人に伝えなければならない、と行き着いたかたちです。それは被災地で被災者が生きた2年間の記録そのものであり、地域の未来のために正しく伝え活用されなくてはなりません。なぜなら人の命に関わることだからです。それを頭で理解するというよりも、どうしたら身体的に理解してもらえるのか。身体が震えるような、気がついたら涙が出てくるような感覚にさせることができるのか。そのぐらいでなければ、我々が経験した1/100も伝えられないと思いました。これは展示自体が「目を背けるな」そして「覚えなさい」と、ある意味その感覚を強要しています。
被災現場写真は、最初は現場のことを伝えようと思って撮っていたのですが、写真を見返したときに、その写真の伝えたい部分がさっぱりわかりませんでした。写真は情報量が多すぎて、どこを見ていいのかわからないのです。だから、我々が撮影した写真ひとつひとつに、なぜこの写真を撮ったのか、どこを見て何を考えてシャッターを切ったのか、と長い説明をつけました。その理由を明らかにせずには、あの異常な経験をしなかった人の目にはただの被災地の風景にしか映らず、何も伝わらないからです。だから、写真だけでは伝わらない「匂い」や「身の危険」を記し、生身の人間によって撮影されていることを文章で表現しました。
2011年4月25日、気仙沼市弁天町の状況。水産会社超低温冷蔵庫内の様子。冷凍保存されていたサンマが自然解凍され、腐敗が進んだもの。町全体が魚の腐敗臭で満たされていたが、その大元となると匂いのレベルが違う。二重にマスクをしていても気絶しそうなほど強烈な悪臭だ。体が震えだし、身の危険を感じた。しばらくサンマが食べられなくなった。110Y
被災地の外部からやって来た報道陣が、ピカピカのスニーカーを履いて望遠レンズで撮影をしているなか、我々は着の身着のまま泥まみれになって現場を歩いていました。その人間の感覚は、文章を読んでもらわないとわかりません。むしろ、そのために写真は添えてあるという感じです。通常であればクレームが出るほど文字量の多いキャプションですが、時間をかけて展示を見てくださっている方が多く、読み始めると意外にも全部読めてしまうという声がよく寄せられます。鑑賞者が目で見て、感じて、自分の身に置き換えて考えてもらう。我々の目的はそのことに尽きます。
2011年3月29日、気仙沼市浜町(鹿折地区)の状況。津波被災現場を歩くと、目にする光景の非現実性、あまりの異常さに思考が停止してしまう。常識に裏付けられた論理的な解釈ができず、一瞬、妙に幼稚な思考が顔をのぞかせる。「巨人のいたずら...」、などと感じたりするのだ。実際、そんな程度の発想しかできないほどメチャクチャな光景が果てしなく続いていた。136SY
──リアス・アーク美術館での東日本大震災の常設展は、2013年4月オープンから3年が経ちますが、観客の反応はこの3年で変わりましたか?
そうですね、この展示に対してけっして肯定的とは言えない意見が一昨年夏くらいから出始めました。そのやり玉に挙げられるのは、被災物に添えられたハガキの文章です。ハガキに綴られた文章は、被災者の言葉の「聞き書き」のようですが、実は創作された物語です。様々な被災者の人たちと語り合うなかで得られたエピソードをベースに私がリライトしています。客観性を重んじている博物館学的な立場から、展示にフィクションが入り込んでいいのか、と批判されることがあります。
平成元年ころに買った炊飯器なの。じいちゃん、ばあちゃん、わたし、お父さんと息子2人に娘1人の7人だもの。 だから8合炊き買ったの。そんでも足りないくらいでね。 今はね、お父さんと2人だけど、お盆とお正月は子供たち、孫連れて帰ってくるから、やっぱり8合炊きは必要なの。 普段は2人分だけど、夜の分まで朝に6合、まとめて炊くの。 裏の竹やぶで炊飯器見つけて、フタ開けてみたら、真っ黒いヘドロが詰まってたの。それ捨てたらね、一緒に真っ白いごはんが出てきたのね・・・夜の分、残してたの・・・涙出たよ。
津波っつうの、みな持ってってしまうべぇ、んだがら何にも残んねえのっさ・・・ 基礎しかねえし、どごが誰の家だが、さっぱり分かんねんだでば。そんでも、玄関だの、風呂場だののタイルあるでしょ。あいづで分かんだね。俺もさぁ、そんで分かったのよ。手のひらくらいの欠片でも、家だがらねぇ。 残ったのそれだけだでば。
私自身が被災して身の回りのものを失って初めて知ったのは、人は記憶の多くをモノに宿して保管しているということでした。また、記憶の媒体を一度に全部なくしてしまうことの恐ろしさを痛感しました。生活の記憶が宿る身の回りのもの一つひとつの総体として家があり、街があり、その積み重ねとして地域の文化ができるのです。私に言わせれば、身の回りの日用品こそ地域の文化や記憶を支える文化財なのです。
自然との共存による減災
──山内さんは大震災の5年前である2006年に、1896(明治29)年に発生した大津波の報道画を紹介した企画展「描かれた惨状 ~風俗画報に見る三陸大海嘯の実態~」を開催したり、2008年には小説『砂の城』を執筆されたりと、これから起こるであろう震災について警鐘を鳴らそうと精力的に活動されていました。本展でも展示されている三陸大海嘯の記録を見ると、今回の震災でも驚くほど同じような光景になっていることがわかります。津波が来ることがわかっていて、それを伝える作業をしながらも、ふたたび大きな被害を被ってしまったという事実について、それに対する山内さんの心境や震災後の取り組みについてお聞かせください。
今まさに今後の対策について取り組んでいます。一般論では、高い壁をつくれば津波の被害を防げると言われていますが、被災地の人間からしてみると、愚案としか言いようがありません。そのような計画に反対し続けていましたが、ここはあえて一度受け入れて、その状況でやれることを先んじて考えていこうと思っています。
私が提案しているのは、自然と戦おうとするのではなく、地球環境との付き合い方や関係性をもう一度考え直すということです。人間は地球の恩恵を受けて生かされているのであって、極端にいえば地球に寄生しています。そこで、人間側から自然に対してプラスにならなくとも、マイナスを減らすことはできないか、ということです。
今回の震災で壊滅的な浸水被害を受けた地域はほぼ埋め立て地でした。象徴的だったのは、気仙沼の内湾からあふれ丘まで侵入してきたヘドロです。あのヘドロは人間が流し続けてきたもので、実は津波によってすべて放出された後に内湾はきれいになりました。ここからわかることは、人間勝手に環境や地形を変えた場所が自然の営みである津波によって崩壊したということです。
自然観《自然災害》 何らかの異常な自然現象によって引き起こされる災害を自然災害という。つまり、異常な自然現象そのものが災害なのではない。自然災害は自然現象によって「引き起こされる災害」である。災害とは様々な原因によって、人間社会や人命がうける被害を言う。 津波は確かに人間からすれば異常な自然現象である。しかし、自然界では異常とも言えない、常に起こってきた自然現象とも言える。 人間の力で津波をどうにかすることなどできない。津波という自然現象を災害化しないためには、人間が変わるしかない。「キーワードパネル」より引用
私たちは自然災害によって壊れてしまうような文化の中で暮らしています。裏を返せば、そのような危うい文化をつくってきてしまったんです。本来であれば自然に対して畏敬の念を持ち、過剰な搾取はぜず、与えられる恵みに感謝しながら生活する。それがもともとのリアスの暮らしとして存在していたはずなのです。それは環境を壊しては生きてはいけない暮らしであり、そこには守らなければならないルールがあります。これからはこのような自然を重んじた文化や環境に戻していかなくてはならないと考えています。
そこで要になるのは、浅瀬など陸と海の間の中間領域です。高度経済成長期の頃から大型船が入港できるよう浅瀬は掘られて整備されてしまいました。でも、浅瀬は津波の勢いを解消する重要な役割を担っているのです。だから浅瀬を復活させるなど、今こそ環境との付き合い方をもう一度見直さなくてはなりません。なぜなら地震と津波は必ずまた発生し、このままではより大きな被害をもたらすかもしれないからです。そして、それらの自然現象自体を防ぐことは人間には不可能です。だから「防災」ではなく、「減災」を考えるべきなのです。例えば浅瀬を元に戻し、居住地域をその背後につくるだけでも大幅に減災が実現できるはずなのです。
私たちは現状に対する警鐘として「津波で街が壊れた。壁がつくられることで、今度は地域の文化が壊れる」と言っているのです。
情報《想定外》 想定外という言葉は、未曾有という言葉と共に震災発生直後から濫用された。想定外の反対語は、当然ながら想定内ということになる。 東日本大震災で想定外と表現された被害が、本当に想定外だったとすれば、私たち現代人はあまりにも愚かだ。なぜなら、歴史上の事実から判断して、東日本大震災大津波と同等の大津波が太平洋沿岸部を襲う可能性は想定されていて当然だった。それが本当に想定されていなかったというのなら、それは愚かとしか言いようがない。 しかし、膨大な歴史記録物と、科学的研究成果と、現代のテクノロジーがあって、「知らなかった」ということはありえない。そこまで愚かなはずがない。 「実際には想定できていたのだ。それをあえて想定から外していたのだ。その事実を隠ぺいするためには想定外と言うしかないのだ...」、そう考えざるを得ない。どちらにしても愚かだ。 東日本大震災で起きてしまった出来事で、人間の想像を超えた未知の出来事などほとんど起きていない。人類の長い歴史の中で、何度も経験してきたはずのことが繰り返されただけである。ならば想定できたのではないか。 「キーワードパネル」より引用
この問題は個人的・局地的なものではなく普遍的なものです。今回の展示でいうと、客観的な説明を綴った「キーワード」パネルにて、これが普遍的な課題であるということを提示しました。地震や津波の被災地でなくとも、環境破壊による異常気象の影響を受けているという現実がある。いつどんなときにも、この地球上にはあらゆるところに災害の種が潜在しているという事実です。そう考えると自然災害では片付けられない。災害を生んでいるのは人間なのです。
世代を越えて伝える「文化」の役割
──今後ふたたび津波がやってくるのは確実だとしても、そのサイクルが100年単位であった場合、津波を経験した語り部がいなくなってしまう恐れがあります。世代を越えて伝えるという課題について、どのようにお考えでしょうか?
そうですね。人はやっぱり忘れます。震災を経験しない世代は知らないので忘れようもありませんが。知らないのであれば覚えさせなくてはならない。けれども覚えさせなくてはならないことを忘れていってしまうのです。
ただひとつ忘れない方法があります。それは津波が来ても大丈夫な「文化」をつくることです。そこで私が提案しているのは、避難訓練ではなく、「物まね行事」のようなお祭りをつくるということです。
例えば、お祭りでは全身真っ黒に塗った若者が海から地域の人たちを追いかけ回し、独居老人や小さい子供を担いで連れて、捕まらないように高台まで逃げるようにする。辿り着いた高台には食糧が備蓄してあって、それをみんなで調理してみんなで食べて、また新しいものと入れ替える。毎年その行事に参加していれば、いざ津波が来てもみんな高台に避難することができ、避難訓練よりもずっと効果があります。
祭りをする理由や参加する意義はわからなくたっていいのです。この街に生まれて育っていたらそれは文化として当然であり、疑問にも思わなくなるのが理想です。世代を越えて伝えていくためには文化まで昇華させることが大切です。そのためにはやはり100年くらいはかかります。最初は行事に人が集まらなくとも、10年、20年やっていると徐々に定着してきて、世代が変わったときに慣習として根付いていく。それまでにはおそらく祭りや土地が肌に合わなく、その街を去っていく人もいるでしょう。そうやって100年かけて新しい文化をつくっていくということが、地域の未来にとって最も重要なことではないかと私は考えています。
リアス・アーク美術館=写真・テキスト