肥大化する、現・成田国際空港建設反対闘争の主語
現・成田国際空港建設問題をめぐって1960年代から展開された「三里塚闘争」。各々の立場で闘った当事者の「あの時代」と「その後の50年」に、代島治彦が切り込んだ。
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多数の主語が絡み合う闘争に、我々はどう向き合うか
『三里塚のイカロス』は、現・成田国際空港建設問題をめぐって1960年代から数十年にわたって展開された、いわゆる「三里塚闘争」についてのドキュメンタリー映画である。本作の特色は前作『三里塚に生きる』と同様、ときにすれ違う多数の当事者たちの証言をそのままに収めた「多声的口承映画」である点だ。
その語り口は煮え切らない。取材対象たる当事者個々人の言ももちろんだが、本作を通しての監督の立場も匿名的だ。空港建設に伴って過激化する反対運動、その果ての内ゲバ。三里塚の農民運動家や元プロレタリア青年同盟、当時の空港公団職員や中核派運動指揮者など、対立的な立場にある証言をも、本作は慎重に配置している。しかし誰も、この運動の拡大と暴走を総括することができない。歯切れの悪い多様な「声」が、多様なままに並べられている。それゆえに、本作は「三里塚闘争」の一般的な理解を更新しない。
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本作には「声」の沈黙する2つのタイミングがある。ひとつは、証言映像の合間に挟み込まれた資料映像。ここでは大友良英によるフリージャズがBGMに使用されている。もうひとつは、取材中に頭上を通過する飛行機だ。低空飛行の轟音に、各証言者は一様に口を噤(つぐ)む。視覚的なモンタージュが必ずしも保証されない本作において、「多声的口承」は沈黙の契機によってスイッチされている。言い換えれば、この映画にはナレーションが存在しない。『三里塚のイカロス』は、統一的なビジョンを提示しない。
ある証言者は内ゲバに関して、三里塚が全国政治闘争の中心地へと押し上げられたことへの違和感を振り返る。農民の抵抗はいつしか、人民の闘争とされた。拡大と合流の果てに肥大化した主語は、抵抗の動機を見失わせた。ならば、本作にみる2つの沈黙は、「声=アイデンティティ」拡大の困難さを象徴している。私たちは「多すぎる声」を前にして、音楽のように共振するか、轟音に耳を塞ぐかのように応対するしかないのだ。
(『美術手帖』2017年7月号「INFORMATION」より)