フィクションとドキュメンタリーの間を往還する 『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』
東京の片隅で生きる若い男女の恋愛というモチーフを通して、人間の深奥に柔らかく触れるこの映画は、最果タヒによる詩集作品を原作にしたものだ。監督は『舟を編む』で知られる石井裕也。物語としての筋書きを持たない詩を、どのように映像にするのか。この問いこそが本作を構成する主要なテーマである。
最果は、現代生活の憂鬱さを日常的な言葉の連なりで描く詩人である。映画の原作となった詩集では、「生きること」の空虚さが徹底して詠まれているが、石井は映画の中でその世界観を、美香と慎二という登場人物を取り巻く日常や人々との関係性を通して表現している。
2人は都会の片隅で働く、ごく平凡な若者だ。しかし、その周りには様々な死が存在する。母親の自殺、同僚の突然死、老人の孤独死、そして仕事の喪失による社会的な死。ささやかではあるけれど、彼らはそれぞれの人生を生きていた。だが、突然訪れる死はそれらを等しく抹消する。こうした虚無感を受け流すかのように、2人は死に直面する度に諦めたように笑うのである。
作中の要所で、美香は最果の詩を音読する。それはまるで最果の詩を支えに日々を生きる若者が、東京のどこかに実在するかのように思わせる。この現実性は、電気やガス代といった生活費の負担や、東京オリンピック後の建設業の不況など、見る側の日常と重なる話題によってさらに強調される。こうした描写はフィクションでありながら、ドキュメンタリーでもあるという両義的な性質を浮き彫りにしている。
最果は同詩集のあとがきで、詩は書き手と読み手の相互的な行為であると記している。詩が読み手の心を動かすとき、実は読み手側も自身の心の中の記憶や感情を能動的に動員している。それゆえ本作品は、最果の詩を読む石井自身のドキュメントとも解釈されうるのだ。詩の力をメタ的に体現しているという点で、本作品の稀有な個性を見ることができるだろう。
(『美術手帖』2017年5月号「INFORMATION」より)