記録的で、詩的で、写真のような映画だった。そもそも、ロバート・フランクが写真そのもので、写真がロバート・フランクだ。撮る人も写る人も写真におけるすべてがフランクの影響を受けているというような時代に、どんな言葉をもてるのか。写真に触れて10年足らずの僕に、その父の何を語れるだろうか。冷徹な学者かまったく関係のない人以外に、その言葉をもてるのか。敬愛、反抗、何を言っても、僕たちはいま彼の引いたレールの上にいて、また、その先に進まなければならない。
彼の話す言葉は哲学的でユーモアにあふれていた。好きだったのは「斬新な質問なら答えよう。『よく眠れたか?』はどうだ」という言葉だ。彼の言葉はほかでもない、彼が表現を通してよりよい生き方を探し続けている、という表れだ。機械的ではない、もっと自然で、当たり前のことが大切だと言われたようだった。「いまならなんだって写真になる」と彼が言うように、外に出て街を撮っても、身近なものを撮っても、カメラを通して発見し、写真によって整理していく。狂気とも見られるその態度を自ら皮肉りながらも、自分自身と写真の可能性を信じることで、目の前のことと向き合い、新鮮な発想で奇怪と思えることもかたちにしてしまう。
そんな開けっぴろげで裸のままの彼の前では、すべての人々や物までが、自分を取り巻く環境や社会、生き方、ほかでもない自分自身を語る。裸にならずにはいられない。すべてが存在感にあふれていて、その人はその人一人しかいないということがどこまでも伝わってくる。当然のことなのに、社会の生活のなかでは忘れられがちだ。存在と時間の儚さ、愛と苦悩に満ちている。人は当たり前のものを大切にすることはできないのか。苦労して手にしないと気づけないのか。
写真に限らず、生きるということは創造することだ。でも、ただ創造するだけでは駄目だ。想像することだ。写真が撮りたい。彼はとても自然に発想し、自由に創造する、魅力的な人だった。この映画の中で彼は、歴史のような苦悩のなか、天のように広い心で、冷たいビルを背負っていた。
(『美術手帖』2017年4月号「INFORMATION」より)