なぜグラビア印刷は姿を消したのか?
2023年1月から2月にかけてPARCO MUSEUM TOKYOにて開催され話題を呼んだ「TANAAMI!! AKATSUKA!! That‘s all Right!!」。その際に発表された田名網敬一と赤塚不二夫のアートプリント「Last Gravure」シリーズが、2023年7月、SRR Project Space(東京・下北沢)にて装いも新たに展示された。
「TANAAMI!! AKATSUKA!! / Revolver」と題された展覧会の会期中に催されたトークでは、集英社・新規事業開発部の岡本正史を聞き手に、実際に制作に関わった凸版印刷の福島宏孝と松本崇が、その技術的な背景や作品のメイキングについて語ってくれた。
今回のコラボレーションは、これまで雑誌や写真誌を支えてきたグラビア印刷出版の国内での終了を機に実現したものである。グラビア印刷は凹版に分類され、濃厚なインクの乗りと鮮やかな発色によって戦後の出版文化や写真文化を支えてきた。
しかしオフセット印刷が主流となっている現在では、グラビア印刷は国内ではほとんど見ることができなくなっている。凸版印刷でも、田名網と赤塚のコラボレーション企画を最後に輪転印刷機の稼働が終了した。かつて隆盛を誇ったグラビア印刷は、なぜこのような運命をたどったのだろうか。松本はその理由を次のように説明する。
「グラビア印刷は機械が大きすぎて、校正を実際の印刷機で出すことが難しいんです。印刷に求めるものを再現性とするならば、それはデメリットになります。また、効率的に転写で製版するオフセット印刷と違って、グラビア印刷は表面に銅がコーティング(メッキ)された円筒にダイヤモンドの針を使って網点を一つひとつ打ち込むのでより時間がかかります。CMYK(*1)の4版をつくるのに、およそ5時間が必要になる。対応力という点においては、グラビア印刷はちょっと非効率なんです」。
岡本は近年の出版における初版部数の低下が、大部数の印刷に向いているグラビア印刷のメリットをなくしている向きもあるのではないかと付け加えたが、確かに会場のモニターに流れるメイキング映像を見ると、その印刷機や設備の大きさには驚かされる。印刷機の横幅は2メートル以上あり、その中を通過する用紙の長さは100メートル以上。さらに高さも3階建てのビルに相当し、一般的に想像される印刷機のスケールをはるかに越えている。このような巨大な機械が凸版印刷の関連工場だけでも最盛期は30台以上が動いており、さまざまな雑誌を印刷していた。
今回、田名網と赤塚の作品が印刷されたのは、凸版印刷のグラビア印刷機として最後まで現役だった埼玉県川口市の工場にある印刷機を使用している。このコラボレーションは集英社の岡本が2021年の秋に同年12月にグラビア印刷が終了すると聞き、その掉尾を飾る企画として「数十万部刷らなければコストメリットが生まれないグラビア印刷で、エディション111のプリント作品をつくりたい」と凸版印刷に話を持ちかけたのがきっかけだった。
グラビア印刷機の稼働の終了はすでに決まっていたことから、11月には下絵を入稿するという厳しいスケジュールで制作は進められた。この印刷コストを度外視したコラボレーションについて、凸版印刷の福島は「グラビア印刷機が停止することは決まっていましたので、ぜひ取り組みたいと思った」と前向きな気持ちであったという。こうして、両者の協働が実現した。
最高の「グラビア印刷」を目指して
戦後のメディア史において雑誌文化の隆盛に大きな役割を果たしたグラビア印刷は、微細な濃淡によるグラデーションを得意としている。こうした表現はなぜ可能なのだろうか。松本は次のように述べた。
「例えばオフセット印刷は、ひとつの網点がそのままの大きさで印刷されるのですが、グラビア印刷は凹版ということもあり、バケツのようなくぼみからインキが紙にぽんと置かれるようなかたちになります。なのでひとつひとつの網点が、その大きさよりも少し広がることになるんですね。そしてそのような工程をCMYKの4版で繰り返すことによって、網点同士が重なり合うことになります。オフセット印刷では起こりえないこうした細かな奥行きが、グラビア印刷に滑らかで、写真的な濃淡を与えているのです」。
こうしたグラビア印刷の広い色域によるグラデーションは、《鏡と鏡のあいだ》の人物の頬などに認められるだろう。間近で鑑賞すると感じられるインクの濃厚な味わいも特徴で、オフセット印刷が厚さ2ミクロン程度なのに対し、グラビア印刷は10ミクロン以上のインクの厚さを持っている。このような魅力を十全に引き出すために「Last Gravure」シリーズで行われた制作工程の工夫について、福島は次のように語る。
「グラビア印刷機では色校正ができないのですが、そのためにグラビア印刷でも製版はオフセット印刷の領域に合わせるという習慣が業界にはあったんです。でも今回はその『枷』を外して、RGB領域で製版したものでグラビア印刷を行い、色校正をしました。それによって、品質管理の面では非常にクオリティが上がったと思います。つまり『Last Gravure』シリーズは、グラビア印刷が終わるその最後に、初めてグラビアの本気を出したプリントアートなのです」。
田名網と熟練の職人たちとのコラボレーション
このコラボレーションに、田名網はどのように取り組んだのだろうか。現場で田名網と関わった福島がエピソードを語ってくれた。
「田名網先生の立ち合いのもと行われた色校正は緊張しました。こちらとしてはグラビア印刷のリミットを解放したものをまず用意したのですが、場合によってオフセット調に合わせることも想定して臨みました。驚いたのは、先生の色の『強さ』について判断する眼力です。あれほどの目を持つ人はなかなかいない。グラビア印刷は赤と黄が濁らないので、複数の版が重なるかけ合わせのところは、印象として色が強くなりすぎてしまう場合があるのですが、そういったことを的確に指摘してくださいました。このようなコミュニケーションを積み重ねて、先生の求めるクオリティに近づけていきました」。
岡本はこれに対し「赤と黄は田名網もよく使用する色」であることを付け加えたが、だからこそ、この色について敏感だったのだろうか。福島は色の調整について、さらに興味深い話を続ける。
「最初に取り組んだのが《鏡と鏡のあいだ》だったんですが、色が強すぎると先生がおっしゃったので、空と文字に奥行きを付けようということになりました。そこで我々は、あえて空の彩度を落ち着かせ、文字はそのままにしました。抽象的な言い回しになってしまうのですが、そうすることで空から文字が『浮く』ことになり、全体的な『強さ』が薄まるのです。このアプローチで試したものを先生に見せたら『これだ』と言っていただけたので、2作品目以降は同様の方法論で印刷しています」。
福島は何気なく色を「落ち着かせる」と話すが、こうした色の調整も、専門的な技術が必要とされる。それは「糊詰め」と呼ばれる作業で、色を調整したい部分に薬品を埋め込むことで、インキのつき具合をコントロールすることができるようになるのだが、非常にデリケートな感覚が要求されるテクニックである。今回の田名網と赤塚の合作は、こうした出版文化を長年支えてきた現場の担当者たちによる最高水準のサポートによって完成している。そして、熟練の職人たちがとくに苦労したと口を揃えるのが《イヤミとナンシー》の制作過程だ。
「《イヤミとナンシー》は両脇に緑のカーテンが配置されていますが、黄色と藍のかけ合わせでつくる緑はそもそもグラビア印刷が苦手としている色で、ベタに塗れない確率が高いのです。本来であればそういったエラーは避けるべきなのですが、この作品は近くで見ると左のカーテンに少しムラを残しています。私たちはこうした現象を『インキが泳ぐ』と表現するのですが、田名網先生はその偶然生まれるグラデーションのような効果を生かそうとされていたようで、難しい調整を経てようやく完成にこぎつけることが出来ました」。
福島はこのように述べ、トークイベントは締めくくられた。会場には、一番最初に取り組んだという《鏡と鏡のあいだ》に使用した版が展示されていた。シリンダーに巻かれていた部分(銅+クロム)を剥がし、平らにされた4枚の版がそれぞれ額装されている。大部数を想定した印刷技術だからこそ、大がかりな設備が必要なグラビア印刷は小規模で継続することは出来ず、印刷機の部品調達も困難な現状においては、今後新たなグラビア印刷を見ることはますます難しくなっている(*2)。しかし、今回の取組によってその美的な価値が証明され、シリンダーから取り外されたこれらの版は、その技術的側面を伝える重要な資料として、後世へと残されたと言えるだろう。
*1──シアン(Cyan)、マゼンタ(Magenta)、イエロー(Yellow)、キー・プレート(Key plate)の頭文字の略称であり、色の表現法の一種。
*2──正確にはパッケージの印刷などにグラビア印刷はまだ使用されているが、少なくとも国内の出版では現在グラビア印刷を行っている企業はないという。