文化庁メディア芸術祭終了までの経緯
今年8月、次年度の作品募集を行わないことを発表した「文化庁メディア芸術祭」(以下、メディア芸術祭)。25周年を迎えた同祭は、アート、エンターテインメント、アニメーション、マンガの4部門でその年の優れた作品を顕彰し、展示等の鑑賞機会を提供するメディア芸術の総合祭として着実に実績を重ねてきた。
本祭が実質的に終了することについては、その決定経緯や今後の代替となる枠組みなどについて、関係者のみならず広く芸術・エンターテイメント分野において様々な意見が発せられた。本稿ではメディア芸術祭の終了の経緯やその功績、そして今後について、作家たちの見解を踏まえつつ考えたい。
メディア芸術祭が果たしてきた役割
実質的に専門家からの意見の汲み上げもなく終了してしまったメディア芸術祭。同祭が培ってきたものや、その損失の大きさについて、2017年の第20回でエンターテイメント部門の優秀賞を受賞したアーティスト・市原えつこにコメントを寄せてもらった。
まず市原は、メディア芸術祭が次回募集を行わない理由として発表した「役割を終えた」という認識について、次のように反論する。
「メディア芸術祭が終了すると、日本のメディア・アートの分野における生態系が破壊されるぐらいのインパクトがあるのではないか。(メディア芸術祭は)新人発掘・若手支援やインキュベーション、様々な国の作家や関係者の国際交流、幅広い層へのアウトリーチ、数十年にわたる幅広く膨大なメディア芸術の分野を網羅したアーカイヴなど、担う役割が非常に多く、同じ役割を果たせるだけの機構があるのであれば役割を終えたことになるのかもしれないが、自分が知る限り代替になるものは現状として存在しないように思う。国の顕彰として芸術選賞に『メディア芸術』の分野はすでにあるが、一定の知名度や活動実績がないと絶対に入らない類の賞のため、無名の新人でも面白い作品をつくれば受賞する可能性があるメディア芸術祭はほかに替えがきかない存在だった」。
とくにメディア・アートにおいては、新たなプレイヤーが育つ登竜門的な機構が無くなるに等しいと市原は指摘する。
「学生向けのアワードは存在するが、様々なキャリアを経てから作品をつくり始める人もいるわけで、発掘すべき新人=学生とは限らない。世界最高峰のメディア・アート機関『アルスエレクトロニカ』ですらオープンコール(公募)は重要視しており、つねに絶え間なく新しい発想を取り込み、価値と鮮度を高めることに重きを置いている。やはりオープンな公募機能を設けておくのは重要だ。無くなるとなると、これから新しく活躍しようとする人のモチベーションへの悪影響が凄まじい」。
さらに市原はその独自性を踏まえつつ、メディア芸術祭の方針について次のように指摘する。「もちろんこれまでのあり方にまったく改善点がなかったとは言えないので『これからの時代を見越してポジティブに見直し・再編成する』であればまだ良いが、もしもシンプルに『最近そんなに数字がついてないから行政仕分けとして終わらせておこう』なのであれば、それこそ文化財の破壊相当に近い非常に重い不可逆な判断をしてしまったことになるのではないか。『人材育成を重視する』という方針自体は良いとはいえ、人材育成において公募機能による幅広い人材の発掘や、フェスティバル機能による市民へのアウトリーチが果たしていた役割は予想以上に大きかったと思うので、改めてその重要性を問い直したい」。
新たな枠組みに求められるものとは
『頭山』(2002)、『年をとった鰐』(05)、『幾多の北』(22)などの作品で文化庁メディア芸術祭の優秀賞を6回、審査員会推薦作品を3回受賞した、アニメーション作家で東京藝術大学大学院映像研究科教授の山村浩二にも話を聞いた。山村は第7回(2003)、第10回(2006)、第19回(2015)のメディア芸術祭で審査員も務めており、作家と審査員双方の視点を持つ人物だ。山村はメディア芸術祭について「日本が積極的に世界中のメディア芸術を評価するという点では非常にユニークな場だった」と評する。
「交わりそうで交わらないアニメーション、マンガ、アートなどが一緒に展示され、広範囲の分野が紹介されていた。そういった場がなくなることは残念だと思う。また、過去の受賞作が、メディア芸術祭の海外展にあわせて継続的に海外上映される機会が多くあったので、日本の文化を世界に発信するという点でも機能していた。積極的に映画祭に作品を出してはいるが、とくに短編を上映する機会は少ないので、展示とともに長い期間上映してもらえるという点は有意義だったと思っている。また、国が主催している芸術祭で、国外の作品を評価するというアワードは珍しかった」。
いっぽうで国主催であるがゆえに、文化政策次第で方針が変わってしまうことを懸念していたという山村。さらに作家・審査員としての立場から、ジャンルの部門設定にも課題を感じていたと話す。
「幅広いジャンルを扱うことに意義を感じるいっぽうで、『アート』『エンターテイメント』『アニメ』『マンガ』という部門の設定が不自然だった。アートとエンターテイメント、あるいはアートとアニメーションのあいだに、どのような基準をもって差異を見い出せばいいのか。私は作品をアニメーション部門でしか出したことはないが、傾向によってはアート部門やエンターテイメント部門で応募したアニメーション作品もある。また、国際的なフェスティバルなのか、国内に向けたフェスティバルなのか、その方針があやふやなのも気になっていた。国際的なフェスティバルとしての体制が整っていない状態で、海外にも対象を広げてしまっているという印象は否めない」。
今後、仮に文化庁がメディア芸術祭に替わる新たな取り組みをするのだとしたら、どういった可能性があるのだろうか。その方向性を探るうえで、山村がアーティスティック・ディレクターを務めたアニメーション映画祭「ひろしまアニメーションシーズン 2022」が参考になるのではないか。本映画祭の特徴は、多くの映画祭で採用されているインターナショナル部門と国内部門(開催国枠)といったかたちでコンペティションを分けず、「環太平洋・アジアコンペティション」と「ワールド・コンペティション」というかたちで評価を行った。これは、欧米の映画祭にならった評価軸でも、国籍という枠組みによる評価軸でもなく、アジア太平洋地域という新たな評価の軸を、広島から提案するというものだった。これについて山村は次のように述べた。
山村は「いままでのアニメーションの価値基準は、ヨーロッパの影響が強かった。そこを一度離れ、アジア圏、そして環太平洋という視点で色々な作品に接すると、これまで抜け落ちていた視点が多い」としたうえで、次のようにあるべき姿について語っている。「個人的にはメディア芸術祭は募集作品を国内に絞って日本のメディア芸術を表彰し、それを広く海外に紹介する場として機能させた方が良かったのではないだろうか。それが日本なのか、あるいは『ひろしまアニメーションシーズン』のようにアジア圏などにするのかはわからないが、今後何か新たな試みをするときには、範囲を明確にすることで見えてくるものは多いはずだ」。