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19世紀フランスに生まれたもうひとつの潮流。「最後の印象派」たちの世界をたどる

19世紀末から20世紀前半のフランスで活動したアンリ・ル・シダネル(1862〜1939)とアンリ・マルタン(1860〜1943)。ふたりをあわせて紹介する初の展覧会「シダネルとマルタン展─最後の印象派、二大巨匠─」がSOMPO美術館で6月26日まで開催中だ。キュビスムやフォービスムなど20世紀の新たな潮流が生まれるなか、ふたりはどのようにして「最後の印象派」となっていったのか。

文=verde

展示風景より、アンリ・ル・シダネル《ジェルブロワ、テラスの食卓》(1930)

 19世紀半ば、伝統や規則を重んじるアカデミスムに反旗を翻した若い画家たちによって、印象派は結成された。それからしばらくすると、今度は「印象派」を消化し、さらにそれを乗り越えようとするかたちで、ゴッホやゴーギャン、セザンヌらポスト印象派の画家たちが現れ、それぞれに「新しい画風」を追求し始めた。彼らの絵は20世紀のキュビスムやフォーヴィスムなど、新たな流れの源流になった。

 しかし、彼らとは異なり「印象派」の手法を受けついだ画家たちも、同じ時期に存在していた。彼らは、印象派の「光の表現」をベースに、新印象派の点描技法や象徴主義の幻想的テーマなど、当時流行していた他の芸術運動からも、様々な表現要素を取り入れ、組み合わせ、独自の画風を作り上げていったのである。そんな彼ら「最後の印象派」の中心的存在がシダネルとマルタンだった。

 二人は、当時の画壇で高く評価され、晩年には共にフランス学士院のメンバーに選ばれている。近年、ヨーロッパでは、彼ら「最後の印象派」と呼ばれる画家たちの再評価が進んでおり、日本でも現在、東京・新宿のSOMPO美術館で、「シダネルとマルタン展─最後の印象派、二大巨匠─」が開催されている。

 今回は展覧会に寄せて、「最後の印象派」二人の画業を紹介していきたい。

展示風景より、右がアンリ・マルタン《野原を行く少女》(1889)

シダネルとマルタン、二人の画風をかたちづくった「光」

 アンリ・ル・シダネルは1862年にインド洋モーリシャス島で生まれた。中学時代から絵が得意だった彼は、画家の道を志して、20歳でパリの国立美術学校に入学した。しかし、堅苦しい授業内容や、都会での生活に、次第に満たされないものを感じるようになり、パリを離れる決意をする。行き先は、彼が10代を過ごした北部だった。やがて、小さな港町エタプルを気に入った彼は、1885年~94年にかけて、そこに滞在する。

 農民や羊飼いが穏やかに暮らすエタプルでの時間は、都会の喧騒に疲れたシダネルにとって、心癒されるものだっただろう。さらにこの場所で、彼は「自分ならではの画風」につながるヒントをも得た。それは、北フランスの「光」だった。

 パリにいた頃、シダネルは印象派の明るく輝く光の表現を目にし、影響を受けていた。しかし、エタプルの光は、印象派の描くそれとは異質なものだった。フランス北部の空は雲が多く、太陽の光は弱い。しかし、その淡く柔らかな光が微妙に揺らめき、変化していく様に、彼は他にはない、独特の「美」を見いだした。

 それを自分のものにするべく、彼は実践を重ね、霞がかった柔らかな光の中に、北部の風景や人物を、簡潔な構図と淡い色彩でもって情感豊かに描き出すスタイルを確立する。そして、1888年には《エタプル、砂地の上》を含む二点の作品をサロンに送っている。

アンリ・ル・シダネル エタプル、砂地の上 1888 キャンバスに油彩 46×60.5cm フランス、個人蔵 (C)Bonhams

 いっぽうのアンリ・マルタンは、1860年にフランス南部のトゥールーズに生まれた。地元の美術学校で学んだ後、1879年にシダネル同様、パリの国立美術学校に入学している。彼も、独自の画風をつくり上げていくにあたって、やはり印象派の影響を大いに受けている。

 彼が関心を向け、画風のベースとしたのは、故郷である南フランスの「光」だった。南フランスは、北部とは逆に、太陽の光が強く、色彩も明るく鮮やかに見える(ゴッホが色彩画家としての才能を大きく開花させたのが南部のアルルにおいてだったことはよく知られていよう)。マルタンも、ゴッホほど強烈ではないが、明るい陽光と鮮やかな色づかいは、つねにマルタンの画面の特徴であり続けた。

アンリ・マルタン 二番草 1910 板に油彩 69×100cm フランス、個人蔵 ©Archives photographiques Maket Expert

マルタンと「象徴主義」

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