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ポストコロナで問う「身体」のあり方。ベルリンで開催の3展覧会から考える

あらゆる局面にて、この世界の構造や存在の関係性の再考が求められ続けている。その回答のヒントとして挙げられる「身体性」について、ベルリンで開催されていた3つの展覧会から考えたい。

文=日比野紗希

ファブリス・マズリア Telling Stories - a version for three Photo: ©Jörg Baumann

 パンデミックが起こってから2年半。欧州各国では、ワクチン摂取も定着し、年が明けてから厳格な規制も解かれ、以前のような日常が戻ってきた。ベルリンの街にも活気が戻り、冬の終わりとともに顔を出し始めた太陽に心を躍らせる人々の姿に春の兆しを感じる。

 そんな折に起こったウクライナ侵攻。今もなお、収束していないこの暴力的かつ不条理な事件は、歴史のなかで人類が犯した過ちの数々を思い起こさせ、パンデミック同様、この世界の様々な領域におけるシステムの歪みや限界を浮き彫りにさせている。

 こうした事態を立て続けに目の当たりにしたとき、現実において人類がたどる道筋に絶望的にもなる。もちろん、科学技術の進化によって、過去とは異なる手段がとれるようになり、これまでに起こり得なかった新たな展開を生み出すことも可能になった。

 しかし、私たちが考えるイノベーションが、資本主義にもとづく利益増大をゴールとし、その目標を常に達成すべく科学技術を用いたシステムやプロセスの最適化、合理化することに関連しているとするのであれば、その先に救いはあるのだろうか。

 むしろ必要とされるイノベーションは、私たち人類自身の思考の進化であり、国や政治・経済、宗教、思想や文化背景などを超えた共同体(collective)として、この惑星が抱える様々な課題や矛盾に取り組む能力であろう。

 気候変動やデジタル資本主義や監視社会、帝国主義・植民地思想が生み出した政治・経済・文化的分断、人権問題、アイデンテティポリティクスなどあらゆる局面にて、この世界の構造や存在の関係性の再考が求められ続けている。こうしたテーマに対して着目される視点のひとつに「身体性」が挙げられる。ベルリンで開催されていた展覧会から、このテーマに対する思想の拡張をうながすような芸術的実践をいくつか紹介したい。

デヴィッド・チュードア 《Rainforest》: 身体性が捉えるエコロジー

 1996年に亡くなったディヴィッド・チュードアは、1950年代から60年代にかけての前衛ピアニストの「第一人者」として、ジョン・ケージ「4’33”」の初演をはじめとし、ブラウン、シュトックハウゼン、ブッソッティ、フェルドマンなど多くの音楽家の作品が持つ実験的構想を広げるパフォーマンスを展開してきた。

 演奏者としてのキャリアだけでなく、ライブエレクトロニクスなどにおける自身のインスタレーション作品がアーティストに与えた影響は大きい。1950年代には、ジョン・ケージとともにマース・カニングハムのダンスカンパニーに不可欠な音楽家となり、そのキャリアは彼の音楽性の両面を包括している。

デヴィッド・チュードア「Rainforest」 Photo by Saki Hibino

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