集団芸術を作家主義的に紹介できるか
国立新美術館で、庵野秀明展が開催されている。庵野秀明は、言わずと知れた『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』の(総)監督である。
アニメーションや実写映画を手掛けてきた作家に焦点を絞った美術館での展示が最近立て続けに開催されており、記憶に新しいものとしては、国立近代美術館ほかで開催された「高畑勲展 日本のアニメーションに残したもの」(2019〜巡回中)や、福岡市美術展ほかで開催された「富野由悠季の世界」(2019〜巡回中)などがある。
アニメーションの作家を美術館に展示することの狙いは、たんなる商業主義的な目的だけではなく、文脈を形成することにあるのではないかと推測される。そのひとつが、「作家主義」的にアニメーションや映画を理解し評価することではないかと思われる。
美術館と言えば、未だに近代絵画の印象が多くの観客には強いはずだ。その芸術観のなかでは、個人として感情や思考を自由に表現するという「作家」像が未だに支配的なのではないかと思われる。しかし、商業的な条件下における大衆的なエンターテインメントであり、集団芸術である映画やアニメーションにおいては、必ずしもそのような意味での「作家」の表現が行われているわけではない。映画もアニメーションも、本当は無数の作家の多様な創造性が集まってできているものであり、創造者が真っ白なキャンパスに絵筆を振るうというのとは違う原理で作品がつくられている。近代的な作家のように内発的に自由な表現をしようとして、それが作品になっているわけではないのだ。
そのなかで、高畑勲、富野由悠季、そして庵野秀明は例外的に「作家」的に読解しやすいつくり手たちである。これらの展示では、作家にクローズアップすることで、近代芸術を理解し評価する価値観と、商業的で大衆的なエンターテインメントとに、連続する線を引こうとしているように思われる。その戦略には良し悪しがあるだろう。確かに、現場などで様々な創造性を発揮し作品に貢献しているスタッフたちの力を過小評価することにもつながりかねないし、過剰に作家に成果を帰属させることにもなってしまうという弊害はある。いっぽうで、アニメーションや映画を美術の文脈に載せて紹介し理解を求めることも可能になるというメリットがある。そのことの意義は、また後で検討しよう。