「前衛」メディアとなった版画
版画がアートの表現メディアとして考えられるようになったのは、19世紀後半のフランス。その頃、伝統的美術のありかたに閉塞感を感じていた若いアーティストたちが「新しい表現」を模索するなかで、版画に注目するようになる。
その理由の一つは、浮世絵の影響。大胆な構図や色使いが施された浮世絵は、当時のアーティストにとって新鮮な表現であった。浮世絵はインスピレーションの源として、アーティストたちの間で頻繁に交換されるようになる。また印刷技術の躍進も手伝い、自身で版画を手がけるアーティストも増えるようになった。
もう一方の理由は、版画というメディアの性質が、権威の象徴である絵画と正反対であったことにある。当時、「よいアーティスト」になるには、アカデミーやサロンの嗜好に合う絵画技術のマスターが必須と考えられていた。さらに「1点もの」という絵画の希少性が、上流階級のエリート意識と深く結びつき、裕福なコレクターがアートマーケットのほとんどを占めていた。
しかし、若いアーティストの版画作品が流通するようになると、美術界のヒエラルキーが揺らぎ始める。「大量生産によって手頃な価格で販売できる」版画の登場で最新の表現が上流階級以外の人々にも届くようになるにつれ、市民の間ではアートへの関心が広がりを見せるようになる。やがて新たなコレクターが数多く誕生し、既存のキャリアパスをたどらずとも、アーティストたちは作品を売ることができるようになった。アートは次第にエリート層の独壇場ではなくなっていく。版画は、既存のシステムからの脱却という時代精神を象徴するメディアとしてリバイバルを迎え、やがてこの動きはヨーロッパにも広がっていった。
「モダン・アート」の発展に貢献
「リバイバル」以前の版画は、情報を大多数に伝える手段や、イラストレーションとして存在していたものの、「ファインアート」のメディアとしては、まだまだ未開の領域であった。
アーティストの多くは版画に取り組むにあたり、絵画とは勝手が違うことが多く、複雑な印刷技術を修得したり、左右対称のイメージで作業したりなど、格闘が続いた。
やがて試行錯誤のなかから、版画の特徴を生かした実験的な表現が生まれる。そうして誕生した新しい表現は、やがて絵画表現にも影響を及ぼすようになり、モダンアートの展開を後押しすることになる。版画は、近現代アートの発展に欠かせない存在になったと言っても過言ではないだろう。
限りない版画表現
20世紀前半、アメリカで活躍したマーティン・ルイス(1881〜1962)は、生前から非常に優れた版画家として知られていた。光と闇の表現に長け、夜のマンハッタンを題材にした版画に数多く残した。また、技術の伝授にも力を注ぎ、後続のアーティストに多大な影響を与えている。
そんなルイスの最高傑作と呼ばれているのが、《Glow of the City》(1929)。遠くの高層ビルからライトが放たれ明るく染まる夜空と、洗濯物がひしめく低層住宅街を包む暗さが、都会の光と闇のコントラストを際立たせている。
ルイスの作品では、絶妙にコントロールされた光のコントラストが、ドラマチックな風景をつくり上げているが、そこに描かれているのはありふれた生活のなかで人々が見せる「人間らしさ」だ。一見すると20世紀前半ニューヨークの風俗画のようだが、注意深く見ると「時代固有の情報」は極力抑えられている。それがルイスの作品に流れる「今日性」につながっているといえよう。「時代を超えた人間の本質」を版画で表現したルイスは、版画が深遠なテーマを取り扱うことのできるメディアであることを証明している。
表現の軌跡「アーティスツ・ハンド」を感じる
版画の大きな魅力の一つは、「アーティスツ・ハンド」と呼ばれる、アーティストが制作の過程で手を動かした軌跡が作品上に現れる点である。エディションによって、作品の価格は絵画よりぐっと下がるものの、美術鑑賞の醍醐味である「アーティスツ・ハンド」は十分に堪能できるのが版画の特徴である。
エミリー・トゥルーブラッド(1942〜)の《Between Sets》(2000)には、そんな「アーティスツ・ハンド」が存分に表現されている。この作品では、凸版印刷技巧の木版二色刷の技法が用いられており、各色の木版の準備と、色が載る部分以外を慎重に削り落とす必要がある。風変わりなモチーフと構図が一旦目を引くが、水中から見上げる水面の複雑なパターンに、表現の粋が感じられる。
「版を削る間に一度失敗してしまうと、修正することはほぼ不可能。だから自ずと自分がもっとも表現したいことはなんなのか、強く意識して作業をすることになる」とトゥルーブラッドは語る。版画は、自己との内省的な対話を通じて、アーティストに表現を洗練するよう促すメディアとも言えよう。
「ものをよく見る」ことを教えてくれる版画
「表現を真剣に追求するアーティストほど、版画に手を染める」といわれることがある。絵画や彫刻で知られるアーティストが、実は版画も手がけているということが少なくない。
ペリ・シュワルツ(1951〜)は、絵画やドローイングで十分にアイデアを練ってから、版画に取り組む制作スタイルを取る。シュワルツは「アーティストとしての成長するなかで、版画は必要不可欠だった」と語る。版画では、元絵とスケールが変わり、イメージも左右対称になる。そのうえ、複雑な工程を慎重にコントロールしながら作業しなくてはならない。「そのような版画の問題を一つひとつ解決しながら作品をつくるのが楽しみ」とシュワルツは言う。
《Bottles & Jars I》(2009)はアクアチントの作品。仕上がりは一見水彩画のようだが、よく見ると均質な透明感があり、水彩画とは異なることが分かる。
同じモチーフでも、版画と水彩画ではまったく印象が異なるが、その表現の微妙な差異を確かめる過程は、鑑賞する側の楽しみの一つである。注意深く版画作品を見ていると、「なぜこの手法、質感を選んだのか」など、さらに作品に対し興味が湧いてくる。そして、モチーフ以外にも作者の様々な選択が積み重ねられて作品ができていることを、感じることができる。版画は鑑賞者に「よくものを見る」ことを教えてくれるのだ。
まだまだ知られていない版画の魅力を伝える
「オールド・プリント・ショップ」では、15世紀から現代の作品まで、約50万点(作家数は約2万組)を取り扱っている。アート作品に加え、古地図や年代物の新聞広告、ビンテージのポストカードなど「プリント」全般を網羅し、美術館級の作品もあれば、数百ドルから手に入る現代作家の作品も取り揃えている。同店は、専門的な知識が必要だと敬遠されがちな版画の魅力を伝えることに力を注いでいる。
版画の最大の魅力は価格が手頃なこと。「手に入れられるもの」として作品に向き合うと不思議と「人が評価する作品」が気にならなくなり、自らの目で、自分の好きなアートを探すことができ、今まで気がつかなかった、自分の嗜好が見えてくる。版画こそ、これからアートを集めたいという人にお勧めしたいメディアである。