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生きものとともにつくる作品に結晶する生と死。逆卷しとね評「AKI INOMATA 相似の詩学──異種協働のプロセスとゆらぎ」展

ヤドカリや犬といった動物との協働による作品を発表するアーティスト、AKI INOMATA。北九州市立美術館での個展「相似の詩学──異種協働のプロセスとゆらぎ」展は、「他者」という概念や、ヒトと生物の共存、生と死のプロセスについて、鑑賞者に思考をめぐらせる。ダナ・ハラウェイや共生論を専門とする学術運動家/野良研究者の逆卷しとねが、本展について論じる。

文=逆卷しとね

犬の毛を私がまとい、わたしの髪を犬がまとう 2014 人間の髪の毛でできた犬のコート、犬の毛でできた人間のコート、2チャンネルヴィデオインスタレーション

互いに見ること ──AKI INOMATAのポイエーシスと聖遺物

 「他者」(the Other)という概念は、身近にいる「あなた」に適用するにはあまりにも抽象的で、恐ろしげで、否応ない距たりの感覚を圧しつけてくる。1980年代から一貫して「自己」(Self)を起点とした哲学的な他者理解を批判してきたダナ・ハラウェイが、2000年代以降使い始めた「かけがえのない互いであるということ」(significant otherness)という言葉には、かつて自らが霊長類に対してとった態度の内省と哲学的他者概念の批判が凝縮されている(*1)。 それは、形而上学的でどこか神的で浮世離れした無限の他者性を、親密で有限で世俗的な「わたしたち」の次元に差し戻す思考実践だった。「かけがえのない互い」は概念ではない。それは、決して自己や他者という概念ではとらえることのできない、「お互い」(each other/one another)のものとして日常的に実践されている(必ずしも言語を必要とはしない)無礼講のダンス、あるいはあやとり遊びの演目である。 

展示風景 撮影=長野聡史

 いみじくも十和田市現代美術館で開催中の個展のコンセプトに“Significant Otherness”を掲げたAKI INOMATAの作品群は、生きものたちによるかけがえのない互いの動的な関係に貫かれている(*2)。 それはヒトと生きものとの制作過程に照準した、北九州市立美術館の個展「相似の詩学──異種協働のプロセスとゆらぎ」でも変わらない。

 展示室に入るとすぐ右手にはスクリーンがある。様々な建築と風景を象った3Dプリンター製のやどを背負うヤドカリの姿が、次いでおそらくファッションショーでも通用しそうな豪華なドレスがハサミで裁断され、その砕片をミノムシが身にまとっていく姿が、そしてINOMATAの落書きを3Dプリントした得体の知れない何かを背負って歩くカニの姿が見える。

《貨幣の記憶》(2018-)の展示風景 撮影=長野聡史

 同じ壁にはジョージ・ワシントンの相貌をとどめた真珠がはまった二枚貝の、額装を施された写真がかけてあり、ビーバーが削った生木の写真が大量にピン止めされている。左に目を移すと、ガラスケースのなかに、ヤドカリがクリスタルのような半透明のやどを背負うことになった経緯と、ビーバーが彫刻作品をつくる過程とが、INOMATA本人の手書きによるキャプションとともに展示されているのが見える。正面にはランランと目を光らせ夜な夜な生木を歯で削っていく使い魔のようなビーバー、動物園の飼育員、ビーバーの彫刻を摸刻する職人の作業がオーバーレイされた映像がある。その映像の手前には、ビーバーの作品を3倍に拡大し機械を使って摸刻した木彫がある。ぐるりと左手に回ると、イヌの毛で編んだヒトの服とINOMATAの髪で編んだ犬の服が展示してあり、その上部の壁には2チャンネル相似形となった制作過程の映像が投影されている。出口の手前にあるガラスケースの中には、INOMATAがデザインしたヤドカリのやどがずらりと並んでいる。​​

《彫刻のつくりかた》(2018)の展示風景 撮影=長野聡史
ビーバーが木を齧って生み出した「木彫彫刻」と、それをもとにして3倍スケールで模刻された作品から成る
《彫刻のつくりかた》(2018)展示風景 撮影=長野聡史


 以上のような展示風景のつたない描写からも、制作過程の「かけがえなさ」は伝わるだろう。INOMATAの作品はどれも生きものの生活に寄り添うかたちでつくられ、それぞれが「かけがえのない互い」による洗練された作品として具現化されている。だがその制作過程は互いにとって決して平等ではないし、これを理想化することはできない。どんな「お互い」のなかにも必ずコントロールや力関係があるからだ。

 そもそもアートなど、生きもののあずかり知らぬこと。INOMATAがコンセプトの設定から生殺与奪の権まで握っている事実は動かない。ただしINOMATAは、それがどのような作品になるのか完全に知ることはできない。やどを借りてくれないヤドカリもいれば、生木を彫刻とは言えないところまで齧ってしまったりあるいは全然齧らなかったりするビーバーもいるだろう。主導権を握っているように見えるINOMATAでも、ビーバーの彫刻を摸刻する人間や機械と同じく、生きものと対峙し時には声をかけ生態についてリサーチを繰り返し、コンセプトさえ修正する、ある種の「トレーニング」を受ける局面もあるだろう。生きものと何かをつくるということは、わたしにもあなたにも回収できない、どっちつかずのままの不分明で不穏で暴力を潜在させた、主語/主体となることのない「お互い」(each other)という非人称を制作し続ける過程にほかならない。

《犬の毛を私がまとい、わたしの髪を犬がまとう》(2014)展示風景 撮影=長野聡史

 

《犬の毛を私がまとい、わたしの髪を犬がまとう》(2014)展示風景 撮影=長野聡史

​ しかしINOMATAと生きものの「生きた」制作過程を焦点化する「相似の詩学」展は、その生に満ち満ちた過程よりも、あらゆる作品が「死」として結晶せざるをえない、その宿痾を強く意識させる。
 事実、ハラウェイの「伴侶種」(companion species)という形象(figure)に想を得てつくられた、《犬の毛を私がまとい、わたしの髪を犬がまとう》(2014)に関し、岩崎秀雄は次のように書いている。

実際の展示では、作者の髪で作られたイヌ用の衣服と、イヌの〔毛〕で出来た人間用の衣服が向き合って置かれていたのだが、髪がまとまって、身体と離れて展示されている様は、言うまでもなく「遺髪」を想起させる。この作品は、共時的な意味でのイヌと人間の関係性だけでなく、通時的にもそこで試みられた格闘の記憶が、静かに物質的な亡骸(一種の聖骸布)として遺っていく可能性を暗示する。(*3)

 もちろん、岩崎は前段においてイヌの毛をまとったINOMATAがアレルギー症状を呈する逸話に言及しているし、「相似の詩学」の焦点は生きものどうしの動的な制作過程にあることは再度強調しておこう。しかしながら、いやむしろだからこそ、動的で生き生きとした制作過程から切り離される宿命にある、作品として残された動かない遺物は強い死の匂いを吸う。

やどかりに「やど」をわたしてみる 2009-
「アジアン・アート・アワード2018」での展示風景 Photo by  Ken Kato

 INOMATAの代表作であり、2009年から現在もなお制作途上にある連作《やどかりにやどをわたしてみる》は生のプロセスが死のプロセスと同根であることを示す典型例である。在日フランス大使館の敷地がフランス領になったり日本領になったりするその恣意性を着想源とするこの連作は、例えばパリの風景を模したやどに住まうヤドカリに東京の風景を模したやどを渡して引っ越しをさせ、国籍の恣意性を風刺する性質をもっている。ここだけ切り取れば、極めて牧歌的な、微笑ましい情景に映るかもしれない。しかしヤドカリの生態はそれほど生易しくはない。「力の強いヤドカリによって、弱いヤドカリが背負っている殻を追い出され、強制的に殻を交換させられることもある」(*4)。ヤドカリが住まう殻は、食物と同じく限りのある資源である。天敵から身を隠すための殻を貝類と同じように生成することができないヤドカリにとって、殻は借用すべき、時には奪いとるべきやどとなる。からだの成長に合わせてやどを替えなければならない引っ越しとは、ヤドカリにとって生存と死を分ける契機である。

《やどかりに「やど」をわたしてみる》(2009-)の展示風景 撮影=長野聡史

 極言すれば、ヤドカリのやどが美しくなければならない必然性はない。そのからだにぴったりくるものであればペットボトルのふたでもよい。ここにINOMATAのヤドカリ連作のアイロニーはある。一見、洗練されていてスタイリッシュな作品群は、ヤドカリに選ばれない可能性をつねに孕んでいる。なぜなら、からだにフィットするやどを選ぶことは、ヤドカリにとって美の問題ではなく、死活問題だからだ。ビーバーは木を削っているように見えても、本当は歯が伸びすぎないように自らの歯を削っている。艶やかな衣をまとっているように見えても、ミノムシは冬を凌ぐためにただ身近にある素材をつかっているに過ぎない。INOMATAの作品はいつも華麗だ。しかしその視覚的な美しさの背後にある生きものの死活問題によってINOMATAの作品はつくられていることを忘れてはならない。

girl, girl, girl...  2012 ミノムシ、服、ヴィデオ、写真

 わたしたちはいつも何をどうやって見ているのだろうか。距離をとって美しさを愛でることは、どの立場に立って見ていることになるのだろうか。自己と他者という距たりを前提としない「お互い」のなかに入って、ヤドカリとともに死活問題を見ることは果たして可能なのだろうか。

 考えてみてほしい。自然界に生きるヤドカリが住まいとしている貝殻は、すべてかつてはなんらかのかたちで生きていた貝類の亡骸である。つまりヤドカリの世界では、己の生存をかけた聖骸布ならぬ聖遺物争奪戦が戦われていることになる。この死骸をめぐる死活問題を前にしたINOMATAのスタイリッシュなやどは、貝類の死骸や無機物であるペットボトルのふたと等価である。ヤドカリは生きるために死んでいるものを利用し、生きるために死を背負う。死はほかの何かが生きるために欠かすことのできない出来事である。分解と生成、発酵と腐敗はまったく同じプロセスである。食べるためには殺す。寒さをしのぐためには奪う。現生生物を生かしているのはこれまでに絶滅した数多の生物である。

 生きものとともにつくられた作品は、必ず過去に生きた証として遺る。INOMATAによる「現在も、そしてこれからも継続していくプロジェクト」(*5)は生きものと制作を続ける過程で、かつて生きていた美しい生の残り物を遺し続ける。作品は生きた制作過程から死骸として切り出される。INOMATAの制作プロセスを前景化した本展は、このような意味において死のプロセスと「かけがえのない互い」の契りを結んでいる。

 視覚芸術は、見るという行為がどういうことなのかを内省したり、見え方が変容したりする機会を与えてくれる。INOMATAの作品群は明るいが、じつはその煌めきを引き立たせる展示室と同じぐらいに暗いのかもしれない。一見華やいだINOMATAの展示空間とかけがえのない互いを構成するとき、あなたは何を見るのだろう。何を見ないのだろう。どのように見るのだろう。

*1──詳しくは、第33回マルチスピーシーズ研究会シンポジウム「モア・ザン・ヒューマン」(2019年12月7〜8日、立教大学)にて、霊長類学者・足立薫との対談のなかで筆者が言及した。同対談は某誌で活字化される予定。Haraway, Donna J. Companion Species Manifesto (Prickly Paradigm, 2003)、When Species Meet (U of Minnesota P, 2008)〔邦訳には『伴侶種宣言──犬と人の「重要な他者性」』(永野文香訳、以文社、2013)、『犬と人が出会うとき──異種協働のポリティクス』(高橋さきの訳、青土社、2013)がある〕、及び逆卷しとね「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」──ダナ・ハラウェイと共生の思想」(『たぐい』vol. 1、亜紀書房、2019、55-67頁)を参照。
*2──筆者は十和田市現代美術館の個展「AKI INOMATA: Significant Otherness(シグニフィカント・アザネス)生きものと私が出会うとき」は体験していない。本展会期は9月14日〜2020年1月13日。
*3──岩崎秀雄「生きとし生けるものたちとの共創への問いを巡って」(『AKI INOMATA: Significant Otherness 生きものと私が出会うとき』美術出版社、2019、144〜45頁)145頁。
*4──AKI INOMATA「やどかりに「やど」をわたしてみる─Border─」(『AKI INOMATA』32〜33頁)33頁。
*5──小松健一郎「行為するわたしたち──異種/同種間の協働のひろがり」(北九州市立美術館「相似の詩学」展リーフレット)

編集部

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