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2019.9.13

ジャンルを超えるマンガの極北、梶本レイカを読む(2)川口晴美評

梶本レイカは鬼才のマンガ家である。男性同士の性愛とロマンスや、実在の事件をもとにしたサスペンス、さらにホラー、ノワール、ヤクザものといった様々な要素を内包しながら、独自の表現へと昇華する。 BLレーベルから『高3限定』『コオリオニ』などのコミックス刊行を経て、2016年より青年誌『ゴーゴーバンチ』で『悪魔を憐れむ歌』の連載を開始。クライムサスペンスである本作は、帯の推薦文を映画評論家の町山智浩やライムスター・宇多丸、暴力団関連の著作で知られるライターの鈴木智彦が担当するなど、多方面で熱い支持を得ている。暴力が物語をドライブさせ、社会のはみ出し者が跋扈するなか、圧倒的な筆致で描かれる「痛み」と「救済」。過激な表現を使いながら人間同士の関係性にフォーカスする梶本作品には、現代社会に寄る辺なさを覚える読者を、せめてマンガの世界で抱きとめるようとするかのような誠実な手つきが宿る。 そんな梶本レイカの作品世界に迫る、2本の論考をお届けする本企画。今回はサブカルチャーにも造詣が深い詩人の川口晴美が、BLというジャンルを生かして表現された『コオリオニ』における、主人公たちの関係性のあり方を論じる。

文=川口晴美

梶本レイカ『コオリオニ』上下巻(ふゅーじょんぷろだくと、2016)
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ヒトデナシたちの城

 梶本レイカの『コオリオニ』は、現実に起こった北海道警察による「やらせ捜査事件」をもとに描かれた刑事とヤクザのBLマンガである。警察組織の腐敗と反社会組織の強欲。リアルの闇が絡み合い捻れるなか、生きようともがくふたりの男の物語はおそろしく濃密で、単行本たった2冊で完結しているのが信じられないほど。見たことのない雪原の遠くに連れ出され、読み終わった後も美しく冷たい輝きに目が眩んだまま帰ってこられない心地になる。

 警察とヤクザ、それぞれに属する幾人もの思惑が入り乱れてストーリーは二転三転。ページを繰るにつれ隠されていたものが露わになり、こうと思っていた出来事がまったく違う見え方で浮かびあがってくる。メリハリのある力強い筆致で描かれるサスペンスフルな展開は、エンターテインメントとして素晴らしく面白い。と同時に、湿った石を裏返して見てしまったような、私自身が生きているこの世界の得体の知れなさに触れてしまったような、不気味な感触が残される。そして、それは人間に対しても同じだ。笑顔の後ろの虚無と暴力。傷痕のなかに息づくしたたかさ。どんなに親しくても、つきあいが長くても、本当は他者を理解することなどできはしない。他者はおぞましくも美しいひとつの世界として目の前に存在しているのだ。そのことを容赦なく突きつけながら、それでも血塗られた手を希望と救済に届かせようとしたのが『コオリオニ』なのである。本稿では、主人公たちの関係性を軸にこの物語の意味と魅力に迫ってみたい。

居場所のないヒトデナシたちの物語

 北海道警察本部で「エース」と呼ばれる鬼戸圭輔刑事と、誠凜会塩部組の組長補佐であり鬼戸の「エス」(情報提供者)になる八敷翔。それぞれの人物像、関係性の描き方が圧倒的だ。第1話「刑事ごっこ」の幕開けでは、鬼戸は偉丈夫だがどこか傷を負ったものの弱さを漂わせ、健気に彼に寄り添う八敷は儚げな美青年の風情だった。だが、そこから1年前のふたりの出会いが語り起こされ、第2話「ヤクザごっこ」でふたりが組んで潜入捜査することになった経緯と顛末が描かれると、彼らの印象はがらりと変わる。さらに八敷の生い立ちが振り返られる第3話「ごっこの始まり」、それと同じ時空間が八敷の幼なじみである佐伯俊彦の視点から語られた番外編「コオリの女王」では、世界が裏返るような衝撃が待ち受けている。また、第6話「ヒトごっこ」まで読み進めれば、鬼戸も単純な悪徳刑事などではなかったことが見えてくる。

 八敷は小さな町で実父に虐待され、「お前はどこにも行けない」「ここから外へは出られねえ」という呪いをかけられて育った。コオリついていた八敷を見つけて溶かし、札幌へ連れ出したのは幼なじみの佐伯。けれど、ヤクザになって「佐伯のためなら」どんな酷いことも軽々とやってのけるようになった八敷に、佐伯はついて行けなくなる(悪事に手を染めても最後のところで人間的な善悪の境界を超えられない佐伯は、魑魅魍魎じみた登場人物ばかりが蠢く物語のなかで、私たち読者が思わず感情移入してしまう存在であり、愛して助けたはずの八敷に喰い尽くされるように壊れていく様は痛ましくてならない)。

 いっぽう、鬼戸も実父から「言われたとおりのことだけをしろ(そうしないと自分のように人生をしくじるぞ)」という呪いをかけられて育った。それを守って鬼戸は刑事になり、それなりに出世したが、かつてエスとして利用していた「社会不適合者」の寺嶋に、「普通」のフリを上手くやっていると思い込んでいるだけの「お気の毒様」だと見透かされてしまう。

梶本レイカ『コオリオニ』上巻(ふゅーじょんぷろだくと、2016)pp.68-69

 鬼戸も八敷も、自分が自分のままでいられるような居場所を人間の社会のどこにも見つけられなかった。周りの「ヒト」と同じようには生きられない、「ヒト」でなしの魂を持ったふたり。2つの魂は出会い、互いに相手をコオリから解く(溶かす)きっかけとなった。「ヒト」のふり、ヒトごっこで人生をやり過ごしていたのを、やめてしまったのだ。鬼戸は言いなりになっていれば踏みつけられるばかりの警察組織を、出し抜くことを考え始める。八敷は、鬼戸に「お前はどうしたい」「俺の為って? 違うんじゃないか?」と問われ、初めて自分の意思で組長の座を奪うべく行動する。どちらも、為したことは象徴的な“父殺し”。

 相手のために何かをするのではない、悪を喰らって自分が生きようとすることが、結果的に相手を動かした。そうして、それぞれが自ら呪いを解いたのだ。BLという括りで描かれた作品とはいえ、これはいったい“恋愛”なのだろうか。危うくも唯一無二の、対等な関係性。しかも、本心と意図を隠しつつ表面的には軽やかにやりとりし始めた最初から、破滅の道行きへと突き進むまで、どちらも相手のすべてを理解しようとはしていない。生い立ちを語り聞かせたりもしない。理解したり、支配したり、コントロールしたり、そんなことに意味はないとどこかでわかっていたに違いない。ただ、生きるために相手が必要で、ともに生きられる場を探した。この関係性が、私の心を穿つ。これが見たかったのだ、と心底思う。関係性の思考実験の場でもあるようなBLというジャンルをさまよいながら求めていたのは、これだったのだと。不均衡な関係性ばかりの現実に息苦しくなるとき、たとえ2次元であったとしても、この名づけがたい関係性が存在したことに、私は救われる気持ちになる。

関係性の変化を導く、身体と身体のやりとりの描写

 そもそも“恋愛”とはどういうものだったっけ、と思わされるふたりだが、普通にセックスはする。梶本レイカ作品に特有な、暴力の生々しい描写の延長のように、彼らのセックスもまた激しく痛々しく描かれる。BLでは愛情の発露としてのセックスが描かれるし、いっぽうで行きがかりや、不本意なセックスの結果として恋愛が始まる物語もめずらしくはない。だが、『コオリオニ』におけるセックスはどちらでもない。BLのお約束だからエロシーンを入れましたというのとも違う。エロさももちろん素晴らしいのだけれど、なにより重要なのは、何度か登場するセックス描写によって、ふたりの関係性の変化が繊細に描かれていることだ。潜入捜査の相棒としての絆を強める手段として最初の交情になだれこんだときから、「エスっ気ある人好き」と軽口を言う八敷が命じられることに快を見出すたちだと察知し、鬼戸はサディスティックな言動を選んでいる。終わったら「良かった?」と誠実に確かめもする。“言われたとおりのことをする”を行動の規範としてきた鬼戸ならではのふるまいなのかもしれないが、ある意味理想的なセックスではないか。自分の思い込みや幻想を相手に押しつけたりしないし、相手の心身を収奪したり消費したりもしない。身体と身体の対等なやりとり。

 八敷は、最初のセックスのときに鬼戸が「好きなんだよポニィテイル」と言ったから、それ以降髪をポニーテールにしていることが多くなる。また八敷は過去の禊のエンコ詰めで足指を数本失っていて、歩き方がぎこちない。それを鬼戸が「バンビみたい」とかわいらしいもののように言うから、八敷はヒールのある靴を履くようになる。チンピラ然としていたファッションもゴージャスに変わる。さりげない描写のそこここに表れる変化に、八敷のいじらしさが滲み出ていて、たまらない。嬉々とした顔で残虐なことをやってのけるくせに、かわいくて、理解できない存在だからよけい魅力的だ。
 Boysの、Loveとは言い切れない、Loveに似た何かが、身体のやりとりのなかから生じたことがさりげなく描かれていく。こんなBLは読んだことない。

社会不適合者は「ひとりで死ね」なのか

 八敷も鬼戸も、他人の痛みや感情に共感できず、私たちが現実社会で(かろうじて)共有しているような通常の倫理観を持っていない。罪悪感を覚えることもない。そういう生き物としての彼らの、ぞっとするほど醜く、それでいて神々しいような表情が、何度も描かれる。クズと呼んでしまっていいのか、いっそ神と呼べばいいのか、「ヒト」の世界の外にいる者たち。ヒトデナシたち。……もしも自分の近くにいたとしたら、決して関わりたくない。なのに、物語のなかの彼らに惹きつけられ、ふたりの道行きがどうか幸せに至るようにと願わずにいられなくなる。

 なぜなら、現実に様々な理由で最初から居場所を奪われてしまっている人々が、いったいどうやって生きていけばいいか、理不尽な社会に負け続けるしかないのか、その根源的な問いかけを彼らが背負っているようにも思えるからだ。

梶本レイカ『コオリオニ』上巻(ふゅーじょんぷろだくと、2016)pp.92-93

 印象的な場面がある。札幌に出てくる前の不良少年だった八敷と佐伯が描かれるくだりで、ブラウン管のTVから通り魔の犯人が逮捕されたことを伝えるニュースが流れてくる、本筋とはほぼ関係のない小さなコマだ。「動機は『死刑になりたいからやった』」「それなら一人で死ねばいいのにと怒りの声が…」とニュースが伝えている。知っている、と思う。現実にもそういう事件はたびたび起こって、そのたび犯人への憤りが「ひとりで死ね」という合唱になるのを、私たちはもう見知っている。けれども、次のコマで佐伯は、とても静かに「ち…っがうんだよなァ…」と中空に向かって呟くのだ。それは、クズであることをすべて人生の不遇と世間のせいにするのも違うし、死にたい気持ちがあったとしても死ねば救われるわけではないし……というやるせない響きとして届く。ちがうんだよなァ…の先の答えはない。

 私自身、通り魔や無差別殺人者を擁護しようとは思わない。だが、社会の一部としての「ヒト」を殺傷することで社会を壊そうとするところまで追いつめられる存在はある。そのように居場所のない、社会に属せない存在は孤独のまま抹消すればいいというのは、あまりに無残だ。

 周囲の言いなりになって必死に組織に適合しようとしてきた鬼戸は、それにもかかわらず上司から「ボンクラ」と罵られた。だから鬼戸は、別の場面で八敷が別のある人物を「ボンクラ」呼ばわりして無慈悲に切り捨てたことに反応してしまう。雪の原に連れ出して八敷の首に手をかけながら、それでも縋るように、「ただ生きるくらいは…ッ」「許してくれたっていいだろう……!」と叫ぶ鬼戸の泣き顔は、まるでこの世に生まれることの許しを請う赤子だ。八敷は迷子のような鬼戸をまっすぐに受けとめ、「アンタは誰かに許される必要もないし」「オレを罰する必要もない」と答える。そう、それだけが答えなのだろう。ヒトデナシであることを許されることもなく、罰することもなく、ただ生きる。それがふたりの「デエト」なのだ。そのシーンは、「ヒト」の温かさとは異なる氷の輝きが、見たことのない楽園の光の花となってふたりを包み込んでいた。生きていてもいい、生きられる可能性はどこかにある、という祝福のように。

梶本レイカ『コオリオニ』下巻(ふゅーじょんぷろだくと、2016)pp.114-115

 『コオリオニ』は、居場所のないヒトデナシふたりがお互いのなかにだけ居場所を見出した物語。「ヒト」の世界を捨て、倫理も善悪も突破したこの世の果ての城を、ふたりで目指そうとした軌跡であり、奇跡なのである。