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リアリズム論争

Realism Debate

 1946年から足掛け4年にわたって展開された、絵画表現における「リアリズム」概念をめぐる論争。美術批評家の土方定一、林文雄、植村鷹千代、画家の永井潔、石井柏亭らが雑誌への寄稿文によって相互に応答する、誌上論争の様相を示すものであった。

 明治初期の美術がはらんでいた二つの対立に言及した林の論考がその発端となった。林は黒田清輝の絵画を、非典型的な「現象」を「見たままに」描き、生ぬるい主題と描写によって美を志向するものと見なした上で、それは典型的な「真実」を「見たままに」描き、醜を恐れなかった高橋由一のリアリズムを印象主義的に歪めたものであると論じた。また続く論考で林は、印象派・後期印象派とそれを日本に移入した高村光太郎や『白樺』に見られる近代主義(モダニズム)について、大ブルジョワとプロレタリアートの間で引き裂かれ、矛盾した階級的性格を有する小ブルジョワジーの反抗的気分・退廃性を反映したものであると評定し、戦後美術におけるモダニズムの復活を警告した。

 林の最初の論考は、黒田によってラファエル・コラン系統の写実が、さらに明治後半から印象派・後期印象派が移植されたことによる絵画的構成の発展について述べた、先行する土方定一の見解への異議を含むものだった。これを受け土方は、林の主張が陥っている、表現の「思想史的」側面と「絵画的」側面の混同・すり替え、また日本における洋画の移植文化としての歴史的性格や印象派についての思考の浅薄さを指摘し、階級的・政治的な意味を強調するあまり、絵画(史)的な価値への批評的視点が適切に確保できていないことを批判した。

 また、リアリズムを提唱する作家たちの絵が「模写説的リアリズムの限界」を出ないことへの遺憾を表明した土方に反発していたのは、永井潔だった。リアリズムの基礎は模写説・反映論にこそあるとして、近代主義の主観主義的傾向こそ克服すべきものだと主張した(中村義一によれば、こうした近代主義批判の姿勢は、当時の日本共産党における近代主義に対する判定と同調したものであった)。これに対し土方は、次のように応答した。模写説に立つクールベをはじめとするリアリストは、自然を歪曲する構想的主観によらず、「眼が見るとおり」に外的自然を描く視的直観に絵画の領分を限定し、それを宗教や文学といった他領域から切り離すことで、近代的な意味で絵画を独立させた。それを通過していない日本の美術は、事物を客体として把握していないがゆえに、その(「造形」ではなく)「主題」寄りの反映論がかえって現実感の欠乏を招いてしまう。

 いっぽう植村鷹千代は、前衛(アヴァンギャルド)の立場から本論争に加わっている。植村の主張は、「模写」という概念を、アヴァンギャルドの表現にまで拡張して適用すべきということであった。現代においては、シュルレアリスムや抽象の前衛表現が示すように、描かれるべき現実とは外的な対象に留まらず、作家の内部にまで及ぶものとされた。ここにおいて、19世紀的な意味での「模写」概念は変容をこうむっている。リアリズムとアヴァンギャルドを必ずしも対立的でない関係性の中でとらえる姿勢としては、土方も近い立場を取りながら、なお論争的な緊張を残すこととなった。

 論争の後半には石井柏亭も加わったが、その素朴な自然主義は、植村の困惑、土方の反発を招いている。リアリズム論争は全体として、明確な結論を見ないままとなったが、しかし戦後美術の諸状況や問題群との隣接関係において、注目すべき位置を占めている。

文=勝俣涼

参考文献
中村義一『日本近代美術論争史』(求龍堂、1981)