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ギュスターヴ・モロー

Gustave Moreau

 ギュスターヴ・モローは1826年パリ生まれ。象徴主義の画家。建築家で芸術に造詣が深かった父の蔵書で、オウィディウスの『変身物語』や百科全書『マガザン・ピトレスク』などの文学に親しみ、10歳の誕生日にはダンテの『神曲』の版画集が贈られる。また幼少期から素描に打ち込み、43年にルーヴル美術館の模写許可を申請した記録が残っている。46年、新古典主義の画家フランソワ=エドゥアール・ピコのアトリエに通った後、国立美術学校に入学。歴史画家となるため挑んだローマ賞コンクールで2度落選し、退学する。50年、フロショ街にアトリエを構え、ロマン派のテオドール・シャセリオと交流。新古典主義とロマン主義の融合を試みたシャセリオから影響を受け、叙事的な歴史画を描くことを志す。しばしばウジェーヌ・ドラクロワのアトリエにも通う。

 56年、尊敬するシャセリオが37歳で死去。翌年にイタリアを旅し、ラファエロ・サンティやミケランジェロ・ブオナローティなど巨匠の作品を模写し、とくにヴィットーレ・カルパッチョに関心を示す。このとき、エドガー・ドガと知り合い、ともにポンペイなどを訪れている。オールド・マスターの研究に多くの時間を費やし、64年のサロンに《オイディプスとスフィンクス》を出品。ついに初入賞を果たす。同時期に開催された落選展(サロンでの落選を不服とした作家による展覧会)で、エドゥアール・マネの《草上の昼食》(1862〜63)、《オランピア》(1863)が世間の注目を集めており、現実主義の兆しを感じさせるなか、モローは歴史画の新たな旗手として前途を嘱望される。

 70年に普仏戦争が勃発。7年ぶりに参加した76年のサロンで、サロメが洗礼者ヨハネの首を求める聖書の一場面を、作例のない構成で描き出した《出現》《ヘロデ王の前で踊るサロメ》で一躍評価が高まる。しかし、自身のために絵を追求することを望み、80年をもってサロンへの出品を辞退。歴史画家であることを自負し、ローマ・ギリシア神話、聖書、古典絵画、英雄伝説、文学、東方美術などの徹底的な研究に基づいた史実を描くと同時に、自身の想像によって装飾性に富む幻想的な作品世界を生み出した。連作「サロメ」のファム・ファタルのイメージは、世紀末の芸術家たちにも影響を与えている。

 86年、生前唯一の初個展をグーピル画廊で開催。友人のエリー・ドローネが亡くなり、その後任として国立美術館で教壇に立つ。ジョルジュ・ルオーやアンリ・マティスら後にフォーヴの一派となる後進を育てた。1898年没。1903年に世界初の個人美術館として「国立ギュスターヴ・モロー美術館」が開館した。