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ウジェーヌ・ドラクロワ

Eugène Delacroix

 ウジェーヌ・ドラクロワは1798年パリ近郊のシャラントン=サン=モーリス生まれ。ナポレオン・ボナパルトが倒れ、王政復古とその後に起こる市民革命の時代に活動したロマン主義の画家。当時のフランス画壇は、ナポレオンの統治下で啓蒙の手段としても重用されていた新古典主義が中心となっていた。この後に登場したロマン主義は、海難事故に取材し1819年に《メデューズ号の筏》を発表したテオドール・ジェリコーから始まり、これに追随したドラクロワで大成することとなる。調和を重んじ、古典ギリシアやローマの神話画や歴史画に倣った新古典主義に対して、ロマン主義は人間の感情や個性を重視し、騎士道物語などの中世の文学や小説の場面、同時代に起きた出来事を主題とした。
 
 ドラクロワは、ジェリコーと同じくピエール=ナルシス・ゲランに師事し、エコール・デ・ボザールで学んだ。ルーヴル美術館に足を運んで、とくにピーテル・パウル・ルーベンスの作品に感銘を受け、またイギリスの絵画に影響されジョン・コンスタブルの風景画などを研究する。22年に《ダンテの小舟》でサロンに初入選。大胆な構図や色彩が批判されるなか、新古典主義の重鎮アントワーヌ=ジャン・グロの後押しにより初入選するも、24年にギリシア独立戦争を取り上げた《キオス島の虐殺》は直情的過ぎると物議を醸した。ロマン主義の台頭に対抗できる画家としてドミニク・アングルがイタリアから呼び戻され、同年のサロンで初めて2人の作品がそろって展示された。

 30年にブルジョワジーが市民を先導し国王シャルル10世を打倒。フランス7月革命の翌年にドラクロワは《民衆を導く自由の女神》をサロンに出品。女神が右手に持つ三色旗を頂点とした三角形の構図で、革命の象徴である旗が目を引くよう全体の色調を下げて、帽子は革命に参加した人々の階級に描き分けている。新政府買い上げの一作品となったが、扇動のきらいがあるとして実際に一般公開されたのは1855年のことだった。

 18世紀初めのポンペイ遺跡やロゼッタ・ストーンの発見などに端を発して、人々の関心が国外に向いた時代に、ドラクロワも異国を題材とした作品《サルダナパールの死》(1827)などを制作。32年には北アフリカを旅し、照りつける太陽の下で感じ取った色彩や見聞をもとに大作《アルジェの女たち》(1834)を描く。また劇や文学ではウィリアム・シェイクスピアをとくに好み、《ハムレットと墓掘り人夫》(1839)や《オフィーリアの死》(1844)などの作品を残している。30年代以降は政府からの注文も受け、33年にブルボン宮「王の間」の壁画を任されると、38年に同じ宮殿の国民議会図書室のための壁画制作を行う。50年にはルーヴル宮「アポロンの間」の天井画《大蛇ピュトンを殺すアポロン》に着手し、翌年に完成させる。55年のパリ万国博覧会に参加。このときアングルも出展しており、つねに比較されていた2人の画家にはそれぞれ一室が与えられた。57年にアカデミーの正会員に選出。もともと古典に素地があり、晩年は《十字架を背負うキリスト》《墓に運ばれるキリスト》(ともに1859)などの宗教画も手がけた。63年没。