演劇の映像、資料などをデジタルアーカイヴ化し、配信や公開によって新たなマッチングを生み出すビジネスモデルの構築を目指す「緊急舞台芸術アーカイブ+デジタルシアター化支援事業(EPAD)」。舞台資料の収集を、舞台美術家たちに掛け合いながら行ったのが舞台美術家の伊藤雅子だ。伊藤に事業の概要と、プロジェクトの展望を聞いた。
2020年春、コロナ禍で演劇界には危機が到来した。緊急事態宣言の発令と前後して様々な公演の中止が余儀なくされ、解除後も劇場の入場者を50パーセントに制限するなど、興行の持続すら危ぶまれる状況となった。
文化庁は8月に収益力強化事業に取り掛かり、演劇界をサポートする予算を確保。その予算で実施される10本の施策のひとつとして採択されたのが、「緊急舞台芸術アーカイブ+デジタルシアター化支援事業(EPAD)」だ。
任意団体である緊急事態舞台芸術ネットワークと寺田倉庫が共同受託したこの事業は、演劇の映像、資料などのデジタルアーカイブ化や配信の権利処理のサポートを行い、新たな作品と観客のマッチングを生み出すビジネスモデルの構築を目指す。
舞台映像としては、古くは1961年の杉村春子主演の『女の一生』から、2020年の2.5次元ミュージカル『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』Rule the Stageまで1283本を収集。そのうち281本は弁護士たちが権利処理をしてオンラインによる配信と早稲田大学演劇博物館での視聴が可能となった。
舞台資料の収集に関しては、舞台写真やスケッチ、舞台美術の装置図、模型などをオンラインで公開し、閲覧できるようにサイトを整備。寺山修司や平田オリザ、松尾スズキといった著名作家から気鋭の作家の作品まで、533本に及ぶ戯曲が集められ、無料で公開されている。そのデジタルアーカイブは、演劇のプロフェッショナルを目指す学生や研究者、そして何よりも劇場での観劇を望む多くの演劇ファンたちと演劇界の新たなコミュニケーションを生み出すプラットフォームとなる。
バラエティに富む作家陣の作品を収集し、リストを丁寧に作成してアーカイブ化することは、かねてより一般社団法人日本舞台美術家協会(以降:美術家協会)としても念願だった。実際に舞台美術家たちに掛け合い、収集作業を行ったのが、美術家協会に所属する舞台美術家の伊藤雅子だ。日本の舞台美術の第一人者たちの功績を継承するために、6年ほど前から「にっぽん舞台美術の歴史委員会」(通称:Buvile[ブビレ])を協会内に組織し、舞台美術家のインタビューを冊子化してきた彼女は、EPADの理念について次のように語る。
「日本の近代演劇の歴史はまだ浅くて、本業で舞台美術家として活動する人が現れてまだ100年ほど。ミュージカルなどはまだ60年経っていないぐらいです。日本における舞台美術の第一人者のひとりである朝倉摂さんがお亡くなりになったとき、手遅れになる前に先人の功績をまとめておかないと、きちんと継承されないという危機感があり、このような収集活動を始めました。私にはもともと収集癖があるので、以前から先輩の舞台美術家のアトリエや自宅を訪れて、本棚や資料の掃除を手伝わせていただきつつ、色々なものをいただいてきました。先生方は何でも捨てようとするので、『資料として貴重ですから捨てないほうがいいですよ』と言って頂戴してくるものが積み重なりました。それをきちんと分類しようと考えるようになったんです」。
いまは舞台美術家として精力的に活動する傍ら、舞台美術を専門とする学芸員を目指して大学の学芸員課程も受講中だという伊藤。舞台美術家の先輩たちとやりとりをしていると、話すたびに気づきと学びがあるという。
「EPADのデジタルアーカイブの作業を進めるうえで、舞台衣裳デザイナーの緒方規矩子さんをお訪ねした際にたくさんのスケッチや図面を見せていただきました。その一部をアーカイブに載せてもいいかとうかがったら、『そんなのは絶対にイヤよ』とおっしゃったんですね。そのとき緒方さんの思いを初めて知ったのですが、『舞台美術の絵を見て、まずコロス(脇役)のイメージを決めて、最後にメイン(主役)の人を考えるという手順でデザインをするの。周りがあって初めて主役の姿が完成するという過程があるのだから、公開するなら一部ではなくまとめて見てもらいたい』とおっしゃっていたんですね。また、劇団四季の舞台美術を多く手がけられている土屋茂昭さんなどは、デザインに入るまでのスケッチの時間が長く、また多くの量を描くなど、仕事のやり方は舞台美術家によってそれぞれなんです。私は今回のアーカイブにも入れさせていただいた美術家の松井るみさんのもとに8年間いたのですが、彼女のやり方しか知らかなったので、他の先生の仕事の手順や考え方を伺うと、とても勉強になります。こういうデジタルアーカイブを通して、舞台美術の考え方が若い方々にも伝わると思うんですね」。
模型の画像や装置図、スケッチなど数々の資料を見ると、上演の様子にまで想像が広がり、公演を実際に見たいという気持ちになる。EPADの動画配信から公演の記録映像を見られるので、映像と舞台資料によってサイトを訪れた人々に、いずれ劇場に足を運ぼうという思いを喚起することが可能だ。もちろんそうした効果もEPADの目的のひとつだが、資料の公開を快諾した舞台美術家や伊藤には、それと同じぐらい強い気持ちとして、若い学生たちへの教材として、インスピレーションとして、こうした資料の数々が貴重だという考えがある。そして、舞台美術家が描いた原画には、現在の主流であるCADを用いたパース画とはまた違った魅力があり、そうした作品を見ることでも想像力も創作意欲も大きく刺激されると伊藤は強く感じている。
「私は高校3年生のときに『オリバー!』というミュージカルを見て、打ちのめされるぐらいに圧倒されたんですね。それまでヴァイオリンを弾いていたので、音大を目指そうと考えていたんですけど、『オリバー!』を見て、これをやりたいって思ったんです。でもそのころは舞台美術家という言葉も知らなかったし、色々と調べてやっと美大を目指せばいいんだということがわかったんです」。
そう決めてからの伊藤の行動力と勢いは圧巻だ。まず舞台美術を学べる場所が日本大学芸術学部(日芸)だということがわかったら、その翌日に高校の美術教師のもとを訪ね、舞台を見た感動を熱く伝えた。そのうえで「日芸というところを受験するには、スケッチ5枚を提出となっているんですが。スケッチって何ですか? 教えてください」と頼み込むと、それからは昼休みにマンツーマンでデッサンのレッスンをしてくれたという。結果として一浪して東京造形大学に入り、舞台美術の歴史や技術を学んだ。学生たちが手探りで試行錯誤をするのも必要な過程ではあるが、ネットが発達し、若い世代がリサーチ力をもっている現在において、デジタルアーカイブは大きな役割を果たす。
「どういう作業を経てその舞台の完成にいたったのか、これまでは舞台写真をカタログや本などで少し見られる程度だったのが、EPADのようなサイトが生まれたことによって、どういう作業を経てその舞台の完成にいたったのか知ることができるようになりました。装置図と舞台写真を見比べてプロセスを知ることができますし、ミニチュアで再現することもできるはずですから、舞台制作を目指す人たちには本当に貴重なインフラだと思います。こうした資料が蓄積されることで文化が体系化されますし、また、古典的な舞踊や落語から現代のパフォーマンスまで日本の演劇は本当に幅が広いですから、デジタルでそれが世界に発信されたら素晴らしいですよね」。
伊藤は映像や資料のアーカイブ化を進め、原画などの作品を公開できる方法を模索すべく、早稲田大学演劇博物館や多摩美術大学とも連携している。「なにしろ演劇が好きで、劇場で感動していつでも夢を見ていたい」という思いが伊藤を突き動かし、EPADのデジタルアーカイブをより豊かなものにしていく。