2019.8.5

見ることで対象に触れるために。
画家・伊庭靖子 インタビュー

果実や寝具、器などをモチーフに、静謐で写実的な絵画を手がけてきた画家・伊庭靖子。自身にとって10年ぶり、東京の美術館では初となる個展「伊庭靖子展 まなざしのあわい」が、東京都美術館で開催中だ。立体視を用いた映像作品など初の試みも多く展示される本展で、伊庭は何を見せようとしているのか。批評家の菅原伸也が聞いた。

聞き手・構成=菅原伸也 ポートレイト撮影=加治枝里子

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━━東京都美術館での「伊庭靖子展 まなざしのあわい」は、神奈川県立近代美術館鎌倉館での展示以来約10年ぶりの大規模な個展となります。最初に今回の展示について説明していただけますか?

 10年前は初めての大規模な展示で、それまでの仕事を網羅するようにほぼ時代順に展示し、やってきたことを一堂に見せるというかたちでした。この美術館は展示室がわりと個性的で複数あるので、面白い使い方ができないかなと考えました。あと、10年前の個展の後は次の展開を考えていた時期だったので、いろいろなことを実験的にやっていたものが多くて、今回はそれらを少し整理しながら並べたいという気持ちもありました。

    本展は2004年の少し古い作品から始まり、その実験的な表現の時期のものを挟んで、現在中心的に試みている作品が大きな会場に展示してあります。その先のシルクスクリーンと映像は、新しい作品です。自分が質感を求めながらいろいろなことを行い、同時にそれをどう鑑賞者に伝えることができるかということを考えていて、これから先につながるかもしれない展示になったと感じています。

会場風景より、手前が《Untitled 2016-03》 J.SUZUKI蔵

━━この個展で伊庭さんは初の映像作品に挑戦されています。普通、映像作品と言われて想像するものとはまったく違うタイプの作品で少し驚いたのですが、なぜ今回映像作品に挑戦されたのでしょうか?

 以前から写真的なものには興味がありました。ただ、写真になると「印画紙の上に載っている像」になってしまって、見るのは好きであっても、自分の作品にするのはちょっと違うなという印象がありました。でも、映像は光の束なので、支持体がないというか、物質的でないけれども像が結ばれて光の量みたいなものが感じられるので、そこには光と質感が直接結びつく場所があるような気がしたんですね。絵画やそれ以外のものになると物質が間に入るのですが、そうではないものとして映像をずっとやりたいと思っていました。​

会場風景より、《depth #2019》 ランダム・ドット・ステレオグラム(交差視) 協力=ギャラリーノマル

​    ただ、私の作品は物の瞬間を凝視するような傾向があるのに対して、映像は時間の流れがあったり物語が入ってきたりするので、それが苦手なんですね。だからそういった時間が流れていくもののなかであっても、質感と光が結びつきながらそれだけが感じられるものができないかとずっと考えていて、それが今回のステレオグラムの作品につながりました。

 ステレオグラムは最初は静止画で見たのですが、そのときに、ああ、この感覚!と思ってすごく欲しくなり、それをなんとかかたちにできないかと考えました。それがちょっと動いたら面白いかもしれないとやり始めたのが、ステレオグラムの映像作品なのです。

会場風景より、《depth #2019》 デプスマップ 協力=ギャラリーノマル

    でも実際にやってみると、半分以上の方がうまくステレオグラムを見ることができないんですね。そこで、ステレオグラムをつくる過程で出てくるものが「デプス・マップ」と呼ばれる白と黒の映像なのですが、面白い映像だったのでそちらの映像も一緒に展示しました。この「デプス・マップ」をつくるためには、二眼のカメラを使って視差によって距離を測ります。自分から近すぎても遠すぎても測れないので、ある一定の距離の幅の空間の中で物を距離で見ることになります。視覚に左右されずに距離で物を見るということが、物を見ながらその物に捕らわれずその質感と光だけをとらえたいという、私がずっとやってきたこととすごく近いなと思いました。油絵とは全然違うし、突然やり始めて飛躍しすぎた感じはあるかもしれませんが、捕まえたい感覚としてはどちらも一緒なのです。

会場風景より、《Untitled 2006-07》 個人蔵

━━例えばクッションの絵画では、立体的なクッションの上にある柄が絵画の平面上に2次元的に描かれているようにも見えるといった、平面性と立体性の差異と共存が、ステレオグラムの映像において一見平面的な砂嵐のようなイメージが立体的に見えてくるような現象とつながりがあるように感じられました。絵画とのそのようなつながりや共通性もあるのでしょうか

 そうですね。時間の経過とともに物を見るという感覚があります。私の絵画の中でも初期のものは、パッと見てわかる感じがするのですが、徐々にクッションに模様を入れ始めた頃から、少しずつ変わってきています。まずは柄などの平面的なものが目に入ってきて、その奥の質感を見たくてもちょっと邪魔される感じがある。そして、その質感の方に意識を向けていくと質感が自然と見えてくるといったように、絵の中でも、そのように鑑賞者が意識的に作品を見ようとする時間がすごくほしくなったので実験をしました。そういう感覚が映像を見たときの感覚とつながったらいいなと思っています。

━━伊庭さんは写真を撮影してそれをもとにして制作されていますが、それは実物を目の前にして描くのとはやはり異なる感覚があるのではないかと思います。写真を見ながら制作するのは、実際に存在する物から離れて制作できるという感覚があるのでしょうか?

 それは私の思い込みで物を見ないためなんですね。自分のそのときの身体感覚で物を見ていくのではなくて、認識できないけれど実際に存在しているであろう物を徐々に認識していって、それを整えていくような作業を行うので、自分の思いを入れすぎないための手段として写真を使っています。それが物から距離を取るということになると思います。

会場風景より、《Untitled 2018-04》 菅野律子蔵

━━伊庭さんは絵画・版画・パステル・水彩、そして今回はさらに映像と、様々なメディウムを使われていますね。毎回どのようにメディウムを選択されているのですか?

 もともと版画をやっていたので、版画は自分の中にずっとあるものなんですね。版画で作品をつくるプロセスは、直接その場で手を加えられるものではなくて、版を起こす時間や乾燥待ちのあいだに気持ちが変わったり、完成図から構成を考えるといったプロセスが、私をいい意味で客観的に関わらせてくれました。

    それに対して、油絵は、版画よりも早く目の前に現れてくれて、自分がもうちょっと「こうしたい」と思ったことがさっと直せるんですよね。描きながら自分の思いがどんどん入っていくそうした感覚がすごく新鮮で、油絵をやり始めました。ただ私の描き方は特徴的で、どちらかというと自分の思いは抑制されるような描き方です。それでも油絵でしか表現できないような色の響き方とか、ちょっとした油絵具の物質感が見えているイメージに影響する感じなどがすごく好きで、油絵をまずはメインで続けていました。

    でも、やっぱり版画で培ってきたプロセスが私の中に自然と入っていることに気づいて、版画でしかできないことをやりたいと思うようになって、それで1999年と2004年の2回、版画をつくりました。今回の版画作品はそれから15年ぶりです。風景をずっと描きたくて、本当は油絵でやりたかったのですが、風景は遠いので描きどころがなくて、私がとらえたい質がなかなか出せませんでした。そこで、版画というメディアを使って見えている風景全体をひとつの質に閉じ込めてやることで、空間、空気としての質を出すことができるのではないかと考えました。それを油絵でやるとたぶん情緒的なものになりすぎてしまうので、版画でもう少しシステマチックに粒子や色彩で質をつくれないかと思ったのです。

伊庭靖子

    以前までの版画と油絵の使い分けというのは、版画でも油絵でもできることとして、同じようなモチーフを使いながら物質の違いを探る表現でした。対して今回の版画は、やりたいことを実現するためのメディアを探したらそれに行き着いたという、私にとっては必然的なメディアの選び方になっています。

    水彩やパステルは、支持体が紙であるのが普通ですが、私にとっては支持体という存在が邪魔なのです。私の場合、油絵は全部絵具という物質で覆ってつくり上げたいんですね。だからパステルなら同じようなものができるかもしれないと思ったのですが、やっぱり紙の質が見えてきて邪魔でした。そこでサンドペーパーにパステルの粉を塗りつけて、支持体を一切見せず、その粉だけで見せるものをつくってみると、わりと粉の質がイメージと合ってすごく面白かったのです。そのように、物質的な質とイメージの関係でメディアを変えることもあります。

会場風景より、手前が《grain #2018-2》 協力=ギャラリーノマル

​━━今回出品されている風景の版画は、すべて縦長のフォーマットになっていますね。従来の風景画は横長のものが多い印象がありますが、どうして今回すべて縦長のフォーマットを使われたのですか?

 横長に当たり前に広がる風景をとらえたいわけではなくて、ポートレイトや静物画のように、物をぎゅっと凝視するように、ある距離の空間を閉じ込めたいという思いがあったので、縦長にしました。日本の伝統的な風景画は縦長で遠くが上で近くが下というのはよくあるのですが、そこはあまり意識せずに、ポートレイトのほうが意識としては近かったですね。

━━初期の作品にしても今回出品されている2000年代のクッションの作品にしても、物の全体を見せるというよりも写真で言えば「接写」のように物を部分的に描いていますね。その結果、その描かれた物がなんであるのか、観客がにわかに把握できないようになっています。「接写」のように部分的に物を描いているのは、その物がなんであるのかすぐにわからないようにするためでもあるのでしょうか?

 そうですね。初期の頃はとくにそうなのですが、具象的なものが描かれていると、その物がなんであるかというのはすごく強いじゃないですか。だから、鑑賞者は物に意味を求めるのですが、私は質や色といったことだけを求めているので、物に意味はないんですね。そういうことを説明するために、「接写」にして抽象的にもっていくというのがひとつなのですが、いっぽうで抽象的になりすぎると今度は描きどころがないのです。物の質だけを見てほしいんです。だから物がなんであるかは半分わかりながらも、でもそこじゃないところを見てほしいという、その微妙なせめぎ合いのなかで「接写」を多用していました。

 初期の頃は写真の質というものを求めていたので、写真の質感を主に出せるようなかたちとして「接写」が多かったのですが、クッションの作品になると、「接写」でもそれ以前のように抽象的にはならずにある程度クッションという形がわかるようになって、そして、その物の持つ質感だけを伝えたいと思いました。その質感が人の記憶に触れてほしかったからです。

 その質感が人の記憶に触れるために、目で触覚感を感じられるような質感を描いていました。ベッドやクッション、器などの光や質感が鑑賞者の過去の記憶に触れるいうか、見ることがそういう過去の記憶を刺激してほしいので徐々に物からの距離が離れてきたのですが、空間を表現するほどまでにはまだ離れていなかったんですよね。

伊庭靖子 Untitled 2019-03 キャンバスに油彩 作家蔵(協力=MA2 Gallery) ©︎植松琢麿

━━その距離についてですが、初期の作品やクッションの作品は「接写」で描かれ、そこから距離がだんだん遠くなって陶器を単体で少し離れたところから描く作品があって、アクリルボックスの中にある陶器を描く新作になるとさらに距離が離れていきます。それはどのような経緯があったのでしょうか?

 クッションや陶器では、その物の表面の微細な1ミリ以下の中で起こっている光の反射といったことをとらえたかったので「接写」したのですが、徐々にその物の周りの空気をとらえたくなりました。それが置かれている、ある限られた空間の見えていない光、物に当たる前の光、反射した後の光と空気といった存在を描いていきたいと思って、徐々に対象から離れていきましたね。その頃はわりといろいろな実験をしている時期だったのですが、そういう周りの空間をとらえようとしたときの初期の試みが、私にとっては異質な《Untitled 2015-01》といった作品です。器を描いてはいるのですが、本当に表現したかったのは器の周り、器と器との間にある空間なのです。

    菱田春草の《落葉》(1909)の幹があって間の空間があるというのがすごく好きで、そういったかたちで何かできないかなと考えました。でも、果てしなく広がる空間は私は好きではなく、限られた空間が好きなのです。背景の色は安易な光や果てしない空間の表現にならないように、《Untitled 2015-01》では自然の色ではないピンクを背景に置いて、その手前の空間の中での光や空気の動きを表現できないかと思って試してみたのですが、これ1点で終わりました(笑)。

    その後、何かちょっと違うなと思って、そこから徐々に、見えない光をとらえるためにアクリルボックスを置くようになりました。光や周りの風景のようなものをアクリルボックスに映すことで、じつは人は、こういうものを対象の周りに見ることで空間を認識しているのではないか、人が物を見ているときもこういうものを通して見ているのではないかという感覚がありました。それでアクリルボックスの中に物を入れて、本来は複雑であるはずの空間を可視化したのです。

━━アクリルボックスだけではなくて、やはり物をその中に置いて描きたいという思いがあるんですね。

 そうですね。描きたいのは物の周りの空間です。だからその物が存在していないと、その物の周りということにはならないので、物が必要なのです。

展覧会図録

━━初期のフルーツの作品やクッションの作品などは本当に触りたくなるというか、クッションを指でなぞりたいと気持ちに駆られるのですが、今回、東京都美術館で撮影された写真をもとにした新作の場合、物に触ることができそうな気はあまりしません。中央に描かれた物も半透明になっていて、物の触覚性や物の存在感が以前よりも希薄になってきている印象を受けます。それは物の周りの空間を描きたいということにも関連していると思うのですが、伊庭さんのなかで物の存在感や触覚性に対する関心が変わってきたということはあるのでしょうか?

 視覚によって触覚感を経験するというクッションの作品では、触覚感はやっぱりすでに体験しているものなので、見る人の体に直接入るというか、直接に物を体験できるという感覚で使っていて、それはすごく私にとって重要なことなんですね。新作では空間の中に人が入りながら感じてもらうというかたちになっていて、そうなったときに触覚感ではない感覚を見る人に新たに持ってもらったほうがいいのか、または空間であっても触覚感として感じてもらえたほうがいいのか、それはまだ本当にわかっていないんです。

    だからこのシリーズももう少し整理していきたいですし、どういう視覚経験が直接に物を感じるということにつながるのか、それがその人に対していかに強く伝わるのかということがすごく重要なところだなと思っています。そこは本当に未知数なんです。以前の触覚感よりも強いものがあるならば、それはすごく手に入れたいものなのですが、それがあるのかどうかというのはこれからという感じです。いまはいろいろな実験をしている最中で、そこで様々な種をつくっている状態だと思うんですね。それを集めてこれから先どんどん違うものに進化できたらと思いながら進めています。

━━いまは様々な実験を通して種をつくっている状態だというお話がありましたが、今回の個展では初めて映像作品に挑戦されて、またさらに何か挑戦されたい新しいことはありますか?

 いまは映像作品に関心が向かっているのですが、版画もまだもう少しブラッシュアップできるなと思っています。いままではそれ以外のメディアがあっても油絵がわりとメインという感じがあったのですが、映像や版画も油絵と同じくらいの感覚で、それぞれでそれぞれにしかできない質の出し方を求めていきたいと思っています。だから今回の展示をしてからちょっとやることがいっぱいあるなと思って(笑)。油絵では触覚に代わる感覚を探っていきたいですし、映像と版画はたぶん触覚感に近いものにはなるような気はするのですが、それを油絵で感じていた以上のものができないか探っていくということを続けたいと思っています。

伊庭靖子
Untitled 2018-02 作家蔵(協力=MA2 Gallery) 撮影=木奥惠三 Keizo Kioku
Untitled 2009-02 東京都現代美術館蔵
Untitled 2018-01 eN arts collection蔵 撮影=タケミアートフォトス