案内された小さな倉庫には沢山のゼンマイ式カラクリ掛け時計が並んでいる。孫の誕生や富士山が世界遺産に登録されたこと、そしてFIFAワールドカップ開催を記念したものなど、身近な話題から世相を反映したものまで、そのテーマは多岐にわたっている。カチカチと音を立てて室内で一斉に動き出している様は、まるで壮大なインスタレーション空間にいるかのようだ。
作者の黒田清孝(くろだ・きよたか)さんは、静岡県浜松市で鉄工溶接業「黒田製作所」を営みながら、これまで独学でこうしたオリジナルのゼンマイ式掛け時計を50作品ほどを制作してきた。近年では、毎年6月10日の「時の記念日」にあわせて、1作品ずつを発表し話題を集めている。
昨年つくった《医療従事者へ感謝の時計》は、コロナ禍を題材にした。病院をイメージした文字盤には、毎正時になると、マスク姿の少年が時刻の数だけお辞儀をしたり「ありがとう」と書いたサインボードを少女が動かしたりする仕掛けを施した。文字盤の小窓からは、数時間ごとに医者や看護師のイラストや東京五輪の聖火をイメージしたトーチが出現するのだという。
現在76歳の黒田さんは、1946年に3人兄弟の次男として生まれた。小さい頃から、ものづくりが好きで、中身の構造を見たくて時計やラジオを分解して壊してしまうこともあったようだ。中学校卒業後は、浜松市内のネジ製造会社へ就職。「その頃は周りで高校へ行った人はいなかったね。みんな自営をやって車を買うために、早くから社会へ出て働いていた」と当時を振り返る。4年ほど勤めていたが、長男から「起業するので手伝って欲しい」と声を掛けられ、20歳からは兄弟揃って働き始めた。
25歳のときには1歳下の女性と結婚し、2人の子供を授かった。その頃から、兄とは別に独立して現在の黒田製作所を始めた。ちょうど世の中は、1970年代の第一次バイクブームで、16歳になり自動二輪免許さえ取得できれば、400cc以上の大型バイクに乗ることができた時代。バイク製造が盛んだったこともあり、「会社勤めをするよりも自分でやった方が良い」と自動車やオートバイ部品製造・溶接の会社を立ち上げたようだ。
そんな黒田さんにとって転機となったのは、42歳のときに体調不良となり、厄払いを兼ねて床の間に飾る掛け軸を探しに骨董店へ足を運んだときのこと。
「掛け軸と一緒にゼンマイ式の古い掛け時計が思ったより安かったら買って帰ったんです。小学校のとき、先生が蓄音機を手で回してかけてくれた思い出が残ってて、本当は蓄音機が欲しかったんですけど売ってなくって。だから同じゼンマイ式の古い掛け時計を買ったんですが、古時計だって同じものはひとつとしてないんですよね。それから魅了されて蒐集を始めました」。
やがて古時計だけでなく、次第に蒐集の範囲は、蓄音機や真空管ラジオ、レコードなどへと広がっていく。そして30年ほど前からは、蒐集だけでは飽き足らず、壊れた安価な古時計を分解し、自作のゼンマイ式時計をつくるようになったというわけだ。
「知識は全然ないんですけど、ここを動かしたらどうなるとか色々と研究を重ねていったんです。ゼンマイを取り付けて段々と動くようにつくっていくんです。最初は2〜3分で止まっていても、改良していくうちに一晩動き続けてくれるようになるんです。だから朝起きると、すぐに動いてるかどうか見に行ってましたね」。
その制作スタイルは、まるで我が子を育てていくような愛おしささえ感じてしまう。黒田さんによれば、設計図などを描くこともなく、段ボールでサンプルをつくってイメージを膨らませていくようだ。カラクリを時計の中に入れて少しずつ周囲の箱の大きさを微調整していくため、とにかく制作に時間がかかるらしい。当初は、横向きだったり六角形だったりと変わった形の時計を制作していたが、やがてキャラクターを使ったものなど現在のスタイルへ移行していった。
「『売ってほしい』って話はよくあるんですけど、売りませんね。お金が発生したら、何年も動いてくれなきゃ困るでしょ。自分でつくる分には、動かなくなっても関係ありませんから。幸いにしてゼンマイ式は、昭和40年ごろまで生産されていたから、いまは最後の方の機械を使ってるんですよね」。
安価で入手した古時計から使える部品だけ抜き取って、そのDNAを継承していくように別の時計制作へ活用していく。独学で始めた時計制作だが、大型の柱時計などを制作し、ギネス世界記録に何度か挑戦したこともあるようだ。「ギネスで柱時計分野はつくってくれないから3回とも駄目でした。ここにあるのは、2.8メートルの大きさでわざわざ天井をくり抜いたんです。他に存在するなんて書かれてないから自分で世界一だと言ってるんですけどね」と笑う。そんな黒田さんは終活に向けて少しずつ蒐集した品々を整理しているという。
「トラック何台分かの量を処分しましたね。沢山所持していたラジオなどは骨董屋に買って貰いました。今は、骨董市で変わったレコード盤を集めるぐらいですかね。それでも将来は処分しちゃうんじゃないですかね。蓄音機のレコード盤だけは全部取ってあるので将来的には活用してほしいという思いはあるんです」。
コレクターにとって長い時間と手間をかけて集められたコレクションを手放さなければならないという、その感情はひとしおだろう。ただ老境に至った現在でも、「時計はつくり続けていきたい」と創作意欲は未だ止まることはないようだ。毎年「時の記念日」が近づいてくるとマスコミから新作の問い合わせが殺到するというから、周囲から期待されていることが黒田さんにとっての大きな喜びとなっていることは間違いない。ギネスへの挑戦だったり時計制作だったりと黒田さんに限らず、「自分の生きた証を残したい」という思いは、誰にでもあるはずだ。そんなときに黒田さんのような人の存在が、僕らに生きるヒントを与えてくれるのかも知れない。たとえ今はまだ誰からも注目されなくても、手を動かしてつくり続けることで、時が経つにつれて開けてくる道もあるのだから。