静岡県中部、大井川の両岸に位置する島田市。閑静な住宅街の一角に、「さとし工房」という看板を掲げた工房がある。倉庫を利用した工房の入り口をくぐると、無数の木製人形が並んでいる。その多くは、天井に張られた糸から吊り下げられたもので、どうやらモビールとしての役割を果たしているようだ。1000体近くはあるだろうか。吊るされた人形が、風でゆらゆらと揺れている。
「500体までは数えてたんですけどね。すべて流木を拾ってつくったものなんです」。
そう声をかけてきたのが、こうした作品群の作者、杉村聡(すぎむら・さとし)さんだ。杉村さんは、主に退職後から創作活動を開始。かつては駐車場として使っていた倉庫だが、いまではギャラリーと化してしまったため、娘の車も駐車できなくなってしまったようだ。「日曜日は地域の子供たちのために、工房を無料開放している」と語る。
杉村さんは、1954年に静岡県榛原郡初倉村(現在の静岡県島田市)で、専業農家の両親のもと、3人姉弟の長男として生まれた。小学校の夏休みの宿題では、セロハン紙を使ってタタミ一畳ほどのステンドグラスを制作したり、木の枝をカットして小さなログハウスをつくったりと、小さい頃から物づくりが好きな子供だったようだ。中学に上がると姉の影響で音楽が好きになり、吹奏楽部へ入部し、3年間テナーサックスを担当した。父親にねだって買ってもらったフルートを演奏したり、姉の真似をしてクラッシックギターを弾いたりと音楽の道に傾倒していったようだ。
ところが高校へ入学すると、体力をつけるためという理由で水泳部へ入部。好成績を残すことはできなかったが、大学まで水泳を続けた。当時は、高校の選択教科も音楽を選ぶなど、美術を専門的に学ぶような機会はなかったようだ。
「高校の先生が雄弁に世界史を語る姿に惹きつけられて世界史が大好きになりました。歴史に関する番組がテレビで放送されれば、ノートと百科事典を抱えて見るようになっていました。だから、文学部史学科か教育学部社会科で世界史を学びたかったんですけど、学力が足りず駄目だったんですよね。代わりに第6希望で書いていた『小学校図工』に引っかかってしまって」。
静岡大学教育学部で美術教育を学ぶことになったが、芸術系大学を目指していたわけでもなく、特段に美術を学んできたわけでもない杉村さんは、劣等感を抱いていたようだ。
「授業で木炭を使って絵を描いても、先生から『ガーゼをよこせ』と言われて、描いていた絵を消されたこともありました。『なんでここに入学したんだろう』とずいぶん後悔しましたよ」。
次第に学内にも自分と同じ境遇の人たちがいることを知り、仲間ができたことで学生生活も楽しくなっていった。「『お前のペースで描いたら良いんじゃないか』と友だちに言われたことで、描くのが楽しくなったんです。そのうちに美術を選んで良かったなと思うようになりましたよ」と当時を振り返る。
卒業後は、小学校で美術教諭として勤務した。数年ごとに幾つかの学校を転々とするなかで、転機が訪れたのは35歳ごろのこと。赴任したばかりの小学校で5年生の主任を任されていた際に、翌年春から附属中学校への異動を突然命じられた。まさに寝耳に水だったようだ。
「『何か問題を起こしたんじゃないか』と母親からも心配されました。中学の教師をしていた親戚からも『附属中学は大変だぞ』と言われて、結局6年勤務したんですが、本当に激務でしたね。ワープロも打ち始めた頃で、研究へ没頭するようになりました。それだけで俺の人生終わっちゃうのかと思ったら、何だかたまらなくなったんです。そこで自分にノルマを課すように絵を描き始めました」。
授業で子供に教えるための試作を続けていた杉村さんは、花の絵などを積極的に描いていたが、早朝に大井川へ出掛けてスケッチをするなど、本格的に色鉛筆で風景画を描き始めるようになった。
そんな杉村さんにとって、転機となったのは48歳ごろのこと。自宅の建て替えに伴って、庭のウッドデッキに設置する机やテーブルを自作するようになったが、やがて杉村さんの興味は花台制作から流木を使ったモビール制作へと移行していったというわけだ。校長として勤務していた中学校では、校内の天井の高さを利用して、自宅で制作したモビールを学校へ持参し、校内を装飾するようになった。
「流木の魅力は、自然そのものに目を向けることができる点です。流木を見ていると、それまで『汚い』と思っていた流木への認識も変わってくるんです。そういう変化を感じられる自分が嬉しいし、木の形を眺めていると色々とイメージが浮かんでくるのが楽しいんですよね」。
退職してからは、作業場にするために、半年かけて山積みになった農機具の倉庫を整理し、工房として整備。流木を加工し「木人(きびと)」と名付けた様々なポーズを取る人形だけでなく、石に絵を描いてペーパーウェイトをつくるなど精力的に作品制作を始めた。
「『木人』は、切断した木同士を銅線で結合してボンドで接着しています。1個つくるのに3時間ほどかかりますね。つくったり描いたりしているときが楽しくって、完成すると、すぐに次をつくりたくなっちゃうので、できたものには余り執着がないんです。最終的には全部捨てられちゃうかもだけれど、ひとつひとつが僕にとっては自分の生きた証なんですよね。知り合いからは『お前だけ、好きなことが見つかってええなぁ』と羨ましがられています」。
かつて夏目漱石は『草枕』の冒頭で「あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い」と述べ、住みにくい人の世を住みよくするのが芸術の役割だと主張した。自らの人生が「無」であることを避けるため、杉村さんが創作を始めたように、芸術には常に「人生を豊かにすることができるかもしれない」という期待がかけられてきたし、そうした役割を担うには「芸術」が好都合だったとも言える。「若い頃は丸1日、図工の授業をしていたこともあった」と語るように、教育現場に身を置きながらも、杉村さんは自分のやりたいことを追求し続けてきた。その柔軟な発想が、定年後にまるでリミッターが外れたように、過剰なまでの制作を後押ししたのかも知れない。数えきれないほどの「木人」を眺めていると、そのひとつひとつに「つくる喜び」という原初的な快楽があふれているようだ。周囲の評価を気にすることもなく、まるで少年時代と同じように、夢中になってモノづくりができるなんて、どんなに羨ましいことだろうか。