縦120センチ、横60センチのダンボールに制作された壁画。2020年に放送されたNHK連続テレビ小説のドラマ『エール』を模した作品だ。よく見ると、人物の顔や周囲を彩った花などは、すべて甘夏やシークワーサーなどミカンの皮が使用されている。その数およそ200個以上。ひとつひとつを天日干ししたあと、アイロンで成形した皮の上から、作者の土屋清孝さんがアクリル絵具で彩色を施した。
土屋さんが暮らす静岡県湖西市は、静岡県の最西端、愛知県との境に位置し、日照量が全国トップレベルであることから、ミカン栽培が盛んな地域として知られている。土屋さんは、定年退職後から独学でミカンの皮を利用した作品制作を開始し、こうした大型作品を10年間で10点以上は制作してきたようだ。
土屋さんは、1951年に愛知県豊橋市で2人姉弟の長男として生まれた。勉強や運動はできなかったが、その代わりにゴム銃やパチンコ台、そして西部劇のガンベルトを自作したりと小さい頃からものづくりが大好きな子供だった。小学校3年生のときに、真珠の養殖で財を成した御木本幸吉やトヨタグループの創始者である豊田佐吉を題材にした配給映画を観て、彼らが立身出世していく姿に憧れを抱くようになった。
学校を卒業したあとは、手に職をつけるために電気工事士として勤務。ところが電気工事のためとは言え、180センチという大柄な体で狭い屋根裏に入っていくのは至難の業で、そのうえ、アレルギー性鼻炎を抱えていた土屋さんにとってホコリの多い場所での仕事は辛いものだったという。「人に使われるのも嫌になったから」と29歳で電気工事の仕事を退職し、次なる職探しを始めた。安定した仕事を求めて色々探したものの、どれも29歳という年齢では採用枠のない仕事も多かったようだ。そのなかで、唯一見つけたのが刑務官の仕事だった。
「結局、60歳の定年まで刑務官として働いたんですけど、はじめから矯正の仕事をやりたくて働き始めたわけじゃないから、嫌な思いもいっぱいありました。担当していた受刑者が自殺したこともありましたしね」。
5年ほど名古屋刑務所で夜勤業務などをしたあとは、名古屋刑務所豊橋刑務支所へ異動し、工場担当に配属された。服役中の受刑者が机や椅子といった木工製品や溶鉱炉などを製造する工程を見守るのが、土屋さんの主な役目だったようだ。
「人を矯正させて社会に送り出すのが僕の役割でしたけど、三分の一くらいの受刑者はまた再犯で戻ってきてしまうことが多かったんです。覚醒剤などなかなか止めることができませんからね」。
そんな土屋さんにとって転機となったのは、21歳のときに、「大衆発明家の父」と言われた豊沢豊雄の書籍を読んだことだ。「発明だったら自分にもできるんじゃないか」と思うようになり、これまで不織布マスクに取り付ける金具やハエたたきの先端を改良した「ゴキブリたたき」など多くの品を発明してきた。なかでも最大のヒット商品が、厚くて固い柑橘系果物の皮を手軽に剥くことができる皮むき器「オレンジシュッター」だ。刑務官として働いていた1986年に発明し、いままで34万個ほど売り上げているという。
「定年退職したあと、オレンジシュッターで剥いたミカンの皮が花びらのように見えたので、これを何か利用できないかと考えたんです」。
退職した翌年の10月から、ミカンの皮を材料にした造形に打ち込み始めた土屋さんだが、その制作工程は単純ではない。例えば、ミカンの皮で花を模した作品ひとつつくるだけでも、皮むき器で剥いたミカンの皮をハサミで花びら状に裁断し、アイロンで成形。面取りをしたあと、木工用ボンドで固めていく。乾いたあとにも何度かニスと木工用ボンドの塗布を繰り返し、やっとアクリル絵具で彩色することができるというわけだ。そして、近年では異なる品種のミカンの皮の表裏を活用した作品をつくるなど、日々その研究には余念がない。
「刑務官で働いているときから、近くの耕作放棄してあったミカン畑が気になってて、制作を始めてから、そこのミカンを譲ってもらうようになったんです。食べることもできないようなミカンも多いから、作品にすることで蘇らせているんです。ただ、半分ほどは木が枯れてきているから、また別のところを探さなきゃならないんですけども」。
膨大な時間をかけてつくられる作品だが、土屋さんはできあがった作品に対して、ほとんど執着がない。「置き場所に困るから」と観光地に寄贈したり分解して希望者にプレゼントしたりすることもあるようだ。そして、講習会などで惜しげもなく自分の技を伝え、この技術を誰かが盗用することさえも歓迎している。
「やっぱり観た人が喜んでくれるのが、自分の喜びですよ。刑務官時代は嫌なことが多くて、人に恨まれることばかりだったから、みんなから褒めてもらえるいまが一番幸せだね」。
人生には光があれば影もある。刑務官としてつらい思いを経験しながらも愚直に働いてきたからこそ、土屋さんには本来の自分を取り戻す場が必要だったのだろう。そうした意味では、ミカン栽培が盛んな地域で発明と出会い、それが制作へと結びついていったのは、幾多もの偶然が重なって起こった運命なのかも知れない。
そして当然のことながら、老いは誰にでも平等にやってくる。メディアでは、「孤独死」や「老後破産」など老後の不安を煽るような文言が飛び交っているが、必要なのは土屋さんのように自分なりの楽しみを見つけることに他ならない。江戸時代に85歳まで生きた儒学者・貝原益軒は、老境を楽しんだことで知られており、著作『養生訓』の中でも人生を楽しむことの大切さを説いている。土屋さんが剥いたミカンの皮から、「花」を発見したように、僕らは老後に向けてどんな花を咲かせることができるのだろうか。そのヒントは土屋さんのような「超老芸術」とも呼ぶべき高齢のつくり手たちが教えてくれるはずだ。