10ヶ月で学ぶ現代アート 第7回:「現代アート」の物語は1つ?──現代アートの「歴史」

文化研究者であり、『現代美術史──欧米、日本、トランスナショナル』や『ポスト人新世の芸術』などの著書で知られる山本浩貴が、現代アートの「なぜ」を10ヶ月かけてわかりやすく解説する連載。第7回は、現代アートの歴史の「語り」の複数性を紐解く。

文=山本浩貴

ヒエラルキー構造のなかに散在する「現代アートの歴史」

 第7回は「「現代アート」の物語はひとつ?」と題して、「現代アートの「歴史」」についてお話しします。そうはいっても、「現代アートの歴史」そのものについて解説するわけではありません。これから示していくつもりですが、「現代アートの歴史そのものについて」語ることは──紙幅の都合や筆者の力量の問題(それもありますが)とは別の要因のため──原理的に不可能な営みになります。では、本稿で何を話していくかといいますと、現代アートの歴史の「語り方」についてです。

 より厳密に言えば、今回は現代アートの歴史の語り方の「複数性」に光を当てます。「現代アートの歴史の語り方が複数ある」なんて、当たり前ではないか──そう思うかもしれません。確かにそれはその通りなのですが、実際のところ、事はそう単純ではありません。その理由は、やや比喩的な言い方になりますが、現代アートの歴史の複数の語り方は同一平面に水平的に散らばっているわけではないからです。もしそうであれば、たくさんの人を動員して、あるいは機動力のある人を投入して、拡散した複数の語りを丁寧に拾い集めることで問題は解決します(もちろん、それはそれで大変な作業であることは否定しませんが)。

  ですが、実際はそうはなっていません。ではどうなっているのかというと、(先の比喩に合わせれば)現代アートの歴史の複数の語り方は複数の垂直的なヒエラルキー構造が束を形成している中に散在しています。そのため、表面近くにあって比較的容易に発見することのできるものと、地下の奥深くに潜り込んでほとんど人目にふれることのないものがあるのです。そうした縦方向の構造ゆえに、現代アートの歴史のある語り方は「正統」であるとして規範化され、いっぽうで別の語り方は「異端」であるとして周縁化されていくわけです。ここまでいささか抽象的な話を展開してきましたが、本稿ではそのようなことについて、具体例を示しながらお話ししていきます。