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知床、アマゾン、東京。3つの極点の交わりが開く新たなエコロジー観。太田光海評 上村洋一+黒沢聖覇「冷たき熱帯、熱き流氷」展

北海道オホーツク海など、自然環境のフィールドレコーディングを中心とする作品制作を行う上村洋一。キュラトリアル実践を通して近年の新しいエコロジー観と現代美術の関係性を研究し、作品制作も行う黒沢聖覇。トーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)の企画公募プログラム「OPEN SITE」では、新たな環境観を志向する2人の共同制作プロジェクトとして「冷たき熱帯、熱き流氷」展を開催した。上村は知床半島、黒沢はアマゾン熱帯雨林と、対照的な極点へ赴いた経験から生み出された本展について、自身もアマゾン熱帯雨林での調査経験を持つ映像作家、文化人類学者の太田光海が論じる。

太田光海=文

展示風景 撮影=高橋健治 画像提供=Tokyo Arts and Space

超速の東京で、エコロジーの襞を想像する

 展示を見た後に、ジワジワとその体験が自分の中で存在感を増してくるという経験はあまりしたことがない。いつもなら、鑑賞直後に強烈な印象がないとき、その展示から得たものは少ない場合がほとんどだ。上村洋一と黒沢聖覇による「冷たき熱帯、熱き流氷」は、いつものケースに当てはまらない。タイトルに見られる文化人類学者レヴィ=ストロースの名著『悲しき熱帯』に対するオマージュは、この展示が一筋縄ではいかないことをすでに示唆している。とはいえ、タフな自然環境でのフィールドリサーチを経た2人のアーティストが、知床半島とアマゾン熱帯雨林という対照的な極点を基盤に新たな環境観を提示するとの触れ込みだ。壮大な自然の織りなすリズムとマテリアルな質感に浸らせてくれるという身勝手な期待を抱き、胸を膨らませた。こっちはただでさえ汚染された大気と金属の軋む音に絶えず晒されて疲れているんだ。東京大都市圏という極東(西洋から見れば)のメトロポリスもまた、人類が生み出したひとつの極点に違いないのだから。

 展示室に入り、まず左の小部屋を覗くと、中央には精巧につくられた小さなスノードーム(15×18cm)がある。その裏には、知床とアマゾンそれぞれの土地での水上移動中に撮られた写真を、木造ボートの先端部分(両者は酷似している)を継ぎ目にシンメトリーにつなぎ合わせた作品が展示してあった。

上村洋一+黒沢聖覇 Floating Between the Tropical and Glacial Zones 2021 ガラス、ナイロン樹脂( ベース部分)、紙類、塗料、精製水、パウダー、台座( ナイロン樹脂)、人感センサー
15×18cm
© Yoichi Kamimura + Seiha Kurosawa Photo by Hyoue Ishida

​ 次に大部屋に目をやると、ハンモックとその周囲に積まれた透明で楕円形の大量の風船がまず目に入った。アートをサイトスペシフィックかつコンテクスチュアルな身体的体験としてとらえるならば、東京の中心部にある狭い密閉空間で目にするポリウレタン製風船のかたまりはそれ自体が圧迫的で異様だ。だが、「この場にあること」が特別な意味を帯びるのは南米、特にアマゾンで多用されるハンモックも同じである。「吊る」や「ぶら下がる」という霊長類的アクションから疎外された都市に生きる僕の血は、自身の濃密な南米滞在時の記憶も相まってざわついた。圧迫されかつ充満した血管は、健康的観点のみから見ればあまり良くない兆候だが、芸術的観点からはむしろいい傾向である。​

展示風景 撮影=高橋健治 画像提供=Tokyo Arts and Space

​ 会場全体を包み込む上村によるサウンドスケープは圧巻の一言。荒波とともに流氷がまさに割れ出し、溶け出している破壊的かつトロみのある音が、アマゾンの夜にこだまする「森羅万象」としか呼びようのない究極のオーケストラと絡み合い、リミックスされることで、ある種のサイケデリックな感覚をも呼び起こす幻想的な具体音楽(Musique concrète)をなしている。大部屋の右側の壁には、上村による水彩画がランダムに(見えるように)並べられている。ハンモックに横たわりながら鑑賞すると、個別の絵の内容よりもむしろ全体が寒色から暖色へのグラデーションとして構成されていることに気付く。

上村洋一 Hammock Girl 2020 紙に水彩、色鉛筆
25×18cm ©Yoichi Kamimura

​ そのうちのひとつ、青々しい風景の中でハンモックに乗る少女を描いた作品《Hammock Girl》が象徴するように、流氷とアマゾンそれぞれのモチーフが入り混じるイメージ群が散漫に写し出される。ここで注目すべきは、寒色から暖色へという温度のメタファーである。心象イメージで描くなら、グラデーションは白(流氷)から緑(アマゾン)でもおかしくない。どちらの色も、文字通り他方の世界には「存在しない」色だ。むしろそちらのほうが色彩的説得力は高いとも言える。では、なぜ温度なのか?という思考の引っ掛かりを生むポイントだ。

黒沢聖覇   Dreaming Yesterday, Fragmented Tomorrow 2021 3ch 映像インスタレーション
21分36秒
© Seiha Kurosawa

 同じ部屋の最奥には、3つのモニターによる映像インスタレーションが展示されている。「ノロい」ボートで進みながら眺める、あの永遠に続くかのような広大なアマゾンの景観と、ある種の「夢からの視点」を模しているとも言える俯瞰的ドローン・ショットが交差する合間に、突如昼下がりの柔らかな陽光の中でスヤスヤと眠る日本人女性の姿が差し込まれる。遥かなる未踏の地というエキゾティシズムに絶えず晒される「アマゾン」という虚像を片手でぶった斬りつつ、余った手でその時間感覚を(たとえ束の間であっても)東京という街に、そっと滑り込ませること。虫や微生物がうごめき、容赦なく人間を侵食するあの熱帯雨林と、限りなく無菌的な東京という街をあえて同じ「リアル」であると仮定してみること。女性が眠る部屋の「いかにも」な白基調の清潔感に、黒沢の挑戦的な意志を感じた。

展示風景 撮影=高橋健治 画像提供=Tokyo Arts and Space

 しかし、正直なところ、全体としてそれぞれの展示要素が持つポテンシャルが有機的に結びつき、鑑賞体験を相乗的に増幅させるような凄みを持って迫ってきたとは言い難い。そして、ここが肝なのだが、知床半島とアマゾン熱帯雨林の大自然やその手触りに否応なく引き込むようなアウラ、というよりもそのようなものを現出させようというアティチュード自体が感じられない。スノードームに顔を近づけ、まるで氷山を囲む海面下に沈むようなアマゾンの模型のディテールに見とれつつ、展示全体を貫く徹底的なまでの「人工性」と「ケミカル感」に疑問を感じた。まるで極小の泡に閉じ込められ、彼方の世界を想像できないまま、溺れて息もできないでいる都市生活者を放置しているように見えた。

上村洋一+黒沢聖覇 Thermo-cruising 2020 ラムダプリント、アルミマウント、フレーム
23×23cm
© Yoichi Kamimura + Seiha Kurosawa

 着実に破滅(少なくとも人類と多くの動物にとっては)に向かう現代の地球エコロジーを鑑みれば、シニカルな態度も悪くはない。だが、上村と黒沢の意図は鑑賞者を突き放すことではなく、むしろ遠い極点への想像力を掻き立てることのはずだ。真っ暗闇の中、一歩先に何があるかわからないまま踏み出すときのあの腹が底冷えするような感覚や、絶えず漂っている心地よい腐敗の匂いや(これは僕のアマゾンでの体験に基づく)、歩行すらままならない雪や地面の起伏に満ちた肌触り、そして現地に住む人たちが持つ驚嘆を呼ぶ生きる知恵──それは書物やオンラインからは知り得ない──。鑑賞者の五感(kinaesthesia=深部感覚と呼ぶべきかもしれない)を刺激し、未知の世界へいざなうための手がかりは枚挙にいとまがない。人新世というコンセプトのもと、近年のランド・アートやバイオ・アートといった美術領域では、世界的規模で人工物と自然物の展示的価値や使用方法がラディカルに問い直され、ますます並列化されつつある。このような現状と照らし合わせても、本展示での徹底的な人工性へのこだわりには必然性が足りない。そこには、ダナ・ハラウェイの言う「sympoiesis=種を超えてともに創ること」への視点が欠けている。何も作品をすべて生分解性素材で創るべき、などとは言わない。しかし、人工物とメタ・コミュニケーションにこれだけ寄せ切る覚悟があるならば、政治的にも哲学的にももっと深く僕らの生きる矛盾やねじれを表現することが可能だったはずだ。

展示風景 撮影=高橋健治 画像提供=Tokyo Arts and Space

 上記のような批判はあるが、冒頭にも述べたように、時間が経つにつれこの展示体験が徐々に心の中で存在感を増し、静かに問いかけてくるのを感じている。それはおそらく、本展が鑑賞者に生々しい体験よりもむしろ高度な抽象的レベルで思考の引っ掛かりをいくつももたらし、時間とともに感覚的な「地軸」をずらす力を持っているからではないか。例えば、現地での体感的色感覚ではなく、「寒色から暖色へ」というメカニックな色温度のメタファーをあえて用いていること。スノードームや風船などの球体の偏在が引き起こす「密閉感」とそれを「解放」する対照的な仕掛け(例えばハンモックや天空からのドローン映像)。それらすべてを包み込みつつ、2つの極地が渾然一体となる聴覚体験に導くサウンドスケープ。これらがもたらすコントラストは、会場内でしなやかに僕の肉体に染み渡るよりはむしろ居心地の悪さを生んだ。だが、日が経つにつれ、僕の中で世界を想像するときの地軸がグラデーションの両極ではなく、むしろ境目の不明瞭な中心付近に接近していることに気づく。あるいは、それは指先に刺さった小さな針の先が、朝起きたら自然治癒力によって抜け落ちている感覚に近いかもしれない。自分が気づかないうちに身体はせっせと働くように、「響いた」と自意識では知覚できなくてもいつの間にか響いている展示もある、ということを知った。アマゾン熱帯雨林と知床半島、そして東京という3つの極点を結びつけ、領域横断的な表現の可能性を探った本展は、意欲的な第一歩であり世界的な文脈で重要な意味を持つ。上村と黒沢の両者が今後どんな展開を見せていくのか、期待せざるを得ない。

編集部

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