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REVIEW - 2019.7.17

作家の新展開、「彫刻作品」はなぜ現れたのか? 星野太評「石田尚志展 弧上の光」

線を描きながら撮影する「ドローイング・アニメーション」で知られる石田尚志の個展が、青森公立大学国際芸術センター青森(ACAC)で開催された。作家にとって新たな展開となる彫刻作品など新作も発表された本展を、星野太がレビューする。

文=星野太

展示風景より。手前は《彫刻/4:3》(2019)、奥床面は《ダンス》(2019)、奥壁面は《透過光絵巻》(2016) 撮影=白井晴幸 © shiraiharuyuki 画像提供=青森公立大学国際芸術センター青森

物質的拘束

 今春、石田尚志は青森公立大学国際芸術センター青森(ACAC)で約1ヶ月の滞在制作を行った。その成果発表の機会にあたる本展では、この青森の地で新たに生み出された作品が、横浜美術館での大規模な個展「渦まく光」(2015)以来の主要作品とともに公開された。これら近作について、とりわけ旧作との関連で語るべきことは少なくないが、それは本稿の役目を大きく逸脱することが予想される。ゆえに、ここではさしあたり、石田尚志の作品群に新たに加えられた「彫刻」の周辺に照準を定めることにしたい。

 このほど本展に出品された《彫刻/4:3》は、文字通り縦横比4:3のベニヤ板を、作家が糸ノコギリで即興的に切り取った作品だ。これは、少なくとも公にされたものとしては、石田にとって初めての彫刻作品にあたる。小さなベニヤ板(ないしMDF)を加工し、その断片を再構築した比較的シンプルな作品だが、その直線と曲線からなる独特なフォルムは、小品でありながらも鮮烈な印象を与える。やはり新作である《おもちゃ》と《ダンス》もこの系列に並ぶものであるには違いないが、厳密にはいずれも《彫刻/4:3》からの派生物と考えるべきだろう。

ダンス 2019 MDF サイズ可変
撮影=白井晴幸 © shiraiharuyuki 画像提供=青森公立大学国際芸術センター青森

 とはいえわれわれは、突如として現れたこの作家の彫刻作品を、いったいどのように受け止めればよいのだろうか。手がかりはいくつかある。まず、展覧会リーフレットでも明示されているように、比率4:3のベニヤ板を用いた本作に、映画の「フレーム」への参照が見て取れることは明らかだ(いうまでもなく、これは映画のスタンダード・サイズと同じである)。また、彫刻本体よりもその影を浮き立たせるべく設えられた照明は、この作家がしばしばモチーフとする映写機の「プロジェクション」を連想させなくもない。これはともすると牽強付会な印象を与えるかもしれないが、同作品から派生した《ダンス》という作品に目を向けてみれば、ここでの主役が投影された「光」であることは一目瞭然である。

 当の作家は、本展の最終日に行われたアーティスト・トークのなかで、これらの彫刻をみずからの幼少期の記憶と結びつけつつ説明してみせた(*1)。なるほど、やはり同作品から派生した《おもちゃ》に色濃く反映されているように、そうした幼少期の原体験もまた、この作品が生み出された要因のひとつであるのかもしれない。しかし、以下ではそれとは異なる理路を探し求めてみたい。ここから先の考察は、《彫刻/4:3》が、青森でのレジデンス中に制作されたまったく別の作品を補完すべく現れたという仮説のもとに進められる。

石田尚志 冬の絵・雪上絵画 2019 HDビデオ(カラー・サウンド) 10分04秒 © takashiishida

 そのもうひとつの作品とは《冬の絵・雪上絵画》(2019)である。これは、石田尚志が2010年以来発表してきた、みずからの姿を収めた映像作品のひとつに数えられる。周知のように、初期の《部屋/形態》(1999)や《フーガの技法》(2001)以来、石田のドローイング・アニメーションは、紙面や壁面における描画のプロセスをコマ撮りで収めることにより、描線があたかも自己生成していくかのような特殊な効果を生み出すものであった。したがって、そこで作家の身体は画面から徹底的に排除されていたわけだが、あるときを境に、この作家はおのれの身体を突如として画面に収め始めたのである。それまで石田の作品に親しんできた者にとって、この身体の闖入は少なからぬ戸惑いをもたらしたにちがいない。

 おそらくその戸惑いは、かねてより映像という伸縮自在のメディウムを用いてきた作家が、なんの前触れもなくわれわれにも同定可能な「スケール」を導入し始めたことに起因していたと思われる。あくまでも便宜的な区分だが、石田の作品には、①《部屋/形態》のようにその実寸を把握しやすいもの、②《フーガの技法》のようにその把握が困難なもの、③さらには《絵馬・絵巻》(2003)のように、映像とドローイングを同じ空間にインストールすることで、そのスケールの落差そのものを体感させるものとがあった。2000年代までの石田の作品は、描画/撮影の両輪によって初めて可能になる、そのような自由自在なスケールの変奏によって特徴づけられていたのだ。

 それは、基本的には現在にいたるまで変わらない。しかし、前述のように、いつしかそこには石田尚志その人の姿が見えるようになった。なかには《3つの部屋》(2010)のように、従来のような壁面全体を用いたドローイングの光景を収めたものもあれば、《夏の絵》(2010)のように、かつてであれば見られなかった屋外でのダイナミックな「水」によるドローイングの光景を収めたものもある。いずれにしても、それまでと異なり作品内に作家本人の姿が登場するということは、映像の中の空間のスケールがかぎりなく確定的に把握されるということを意味する。そうであるからこそ、スケールの自由な拡大・縮小をともなう石田の作品のなかで、その出現は決定的な転換点をなすものであった。

彫刻/4:3 2019 シナベニヤおよびMDFに油絵具およびラッカー サイズ可変
撮影=白井晴幸 © shiraiharuyuki 画像提供=青森公立大学国際芸術センター青森

 この変化に関しては、作家が若い時分に専心していた(あるいはいまも継続している)ライヴ・パフォーマンスがしばしば引き合いに出されるが、それはここでの本質的な問題ではない。むしろ重要だと思われるのは、この作家のフィルモグラフィーにおける身体の出現が、そこで用いられる支持体がフィルムからヴィデオに変わり、さらに後者が前者を質量ともに凌駕していく過程と相即していることだ。2016年のあいちトリエンナーレにおいて試みられたように、すでに石田尚志の作品は屋内のスクリーンをはみ出し、建物全体に投影されるまでに拡大することが 可能になってしまっている ・・・・・・・・・・・・(*2)。

 似たような問題は撮影においても見出される。今回の展示において、そうした際限なきスケールの拡大を象徴していたのが、前述の《冬の絵・雪上絵画》であった。この作品では、雪に覆われたACACを巨大なキャンバスに見立て、そこに水やバーナーでいつものように描画を加えていく作家の姿が俯瞰ショットによりとらえられている。とはいえ、これまでとやや違う点があるとすれば、この映像がドローンによって空撮されていることだろう。最終的にACAC全体を収めるまでに上昇するドローンの映像は、大地を支持体とするこの作家の巨大な描線を、いともたやすく画面に収めてしまう。もちろん、それはそれでひとつの興味深い映像であることに変わりはない。だが、石田が今回、小さなベニヤ板が持つ物理的な抵抗にかつてないこだわりを見せたことは、ヴィデオによるスケールの伸縮性が途方もなく大きなものになり、メディウムが本来持つ抵抗の痕跡が見えにくくなってしまったことに対する、ある種の留保としての意味を持つのではないか。

展示風景
撮影=白井晴幸 © shiraiharuyuki 画像提供=青森公立大学国際芸術センター青森

 要点を整理しよう。この10年間、石田尚志の作品に見られたもっとも大きな変化とは、その映像のなかに作家本人の身体が登場し始めたことだった。それは、作品の媒体がフィルムからヴィデオに変わり、撮影・投影可能な映像のサイズが途方もなく拡大していく状況に対する、一定の「スケール」の導入であったのではないか。それがここでの第一の仮説である。そしておそらく、この問題は外観をまったく異にする今回の彫刻作品にもひそかに通じている。というのも両者は、撮影・投影の両面において無限に広がっていく(かのように見える)みずからの映像作品に対して、それぞれ物質的な拘束を差し挟むことに相当するからである。

 かつて「実験映画」と呼ばれていたものは、その支持体であるフィルムを手で触ることがなくなったときに、いつしかそう呼ばれることをやめた。前述のトークのなかで、石田がそれを はっきりと過去形で語っていた ・・・・・・・・・・・・・ことが印象的である。《フーガの技法》の時代、われわれはまだ実験映画という言葉をいたるところで耳にすることができた。しかし、いまやそれは過去の出来事に属する。ならば物質的なものを対象とするその「実験」は、何か別の手段によって贖われなければならない。かくして《彫刻/4:3》が現れる──繰り返すが、これはあくまでもひとつの「仮説」である。

*1──石田尚志×星野太トーク+パフォーマンス、2019年6月16日、国際芸術センター青森。
*2──石田尚志「絵馬・絵巻/プロジェクション」、2016年9月2日、日本銀行名古屋支店南東角外壁。