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外皮/内部と心理的距離。松岡剛評 七搦綾乃「rainbows edge」展

自然現象や動植物の姿をモチーフに、木目やひび割れを生かした木彫作品などを制作する若手アーティスト、七搦綾乃(ななからげ・あやの)の個展が、アートギャラリーミヤウチ(広島)で開催された。干からびた野菜や果物、そして布に覆われた人体のような形態を組み合わせた作品群からなる「rainbows edge」シリーズが展開された本展を、広島市現代美術館学芸員の松岡剛がレビューする。

文=松岡剛

rainbows edge Ⅲ 2016 樟 51×156×70cm 撮影=友枝望

死の表面を凝視する

 七搦綾乃は、例えば干からびたバナナの茎のような、滅びゆく植物の断片をモチーフとする木彫作品で知られる。それらは同時に、霧や霞といった儚い自然現象への関心を反映させたものとも言われる。本展は七搦が2015年より展開する「rainbows edge」シリーズを中心に紹介したものだが、「虹の端」とは、しかととらえることのできないあやふやな存在の謂いであり、彼女がこれまでに関心を抱いた気象現象の延長線上に据えることができる。

rainbows edge Ⅶ 2018 樟 70×100×50cm 撮影=友枝望

 このシリーズの特徴は、枯れた植物の形象が、人体を想起させる形態と組み合わされる点にある。そして、両者の有り様に対応するように、皺の密集する荒々しい部分と平滑でなめらかな面との対比があり、彼女の細密な表現の魅力が際立っている。展覧会としては近年の例にならい、彫刻作品とドローイング作品で構成されており、この組み合わせが、七搦作品の鑑賞をいっそう豊かなものへと導いているように思われる。

 ここで強調しておきたいのは、展示されているドローイングが木彫制作のための習作ではなく、彫刻の完成後、事後的に描かれている点である。その際、モチーフとして用いた植物を参考にしつつも、布に覆われたような未知の対象と対峙する鑑賞者の視点に立ち、内部を想像することを念頭に描いているのだという(*1)。つまり、自身が生み出した物体であることからいったん離れ、得体の知れない存在として空想の対象に位置づけようとする。そのようにして描かれたドローイングが彫刻作品と対置され、互いに作用し続ける関係性の渦中に観客は投げ込まれる。

展示風景より。左から《rainbows edge / drawing Ⅸ》(2018)、《rainbows edge / drawing Ⅷ》(2018、個人蔵) 撮影=友枝望

 ここで彫刻とドローイングの間に生じている連関を、ポンペイの石膏像になぞらえることができる。よく知られているように、古代ローマの都市ポンペイでは、79年のヴェスヴィオ山の大噴火により、逃げ遅れた多くの人々がその場で絶命した。世界遺産にも登録されている遺跡には、人の姿が石膏像により残されている。遺体そのものはすでに消失し、火山灰の中で空洞と化した痕跡が境界面だけを残していたところ、遺跡発見後、その空洞に石膏を流し込むことで、失われた人々の姿が象られた。その表情や細部はヴェールで覆われているように不明瞭で、遺跡の来訪者によって想像されたかつての存在や物語が投影されることとなる。

 それらはつまり、実体としての遺体を伴うミイラのようなものとは根本的に異なっている。この石膏像の例に当てはめるならば、七搦の制作が作品において果たす役割とは、火山灰のように形を封じ込めて写し取ること、そして、原型の実体がそっくり失われるだけの時間的隔絶に代わる、想像する主体の切り替えを介在させることである。

 他方、木彫作品だけに関して言うならば、七搦の作品はミイラ的でもある。それは、かつて生物としてあった、木のミイラのようなものであるためだ。植物が干からびて皺だらけになった状態や、風化したような状態(の形象)が、乾燥や組成の変化ではなく、彫ることによって木の遺体(木材)に与えられている。とくに、2017年以降の作品の細部を観察すれば、木の朽ちた状態や、虫に食われてできた穴までもが再現されており、自然が生み出す形態へと寄せられる作家の関心や、細密な技法に対する強い執着として、作品を特徴付ける重要な要素となっている。

rainbows edge Ⅹ 2019 樟 50×37×43cm 撮影=友枝望

 ところで、彼女が現在の作風に至ったひとつの契機として、幼少期より抱いてきた死に対する強い意識(恐怖)があると言う。それは自身の身体に生起する変調に由来する、滅びのイメージにも通じているのだろう。対象を謎として遠ざけるとともに、至近距離に見ること。そうした、特異な観察者の姿勢が、彼女の表現を成り立たせているように思われる。

 スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットは20世紀初頭の新しい芸術に認められる傾向を「非人間化」として、対象が含み持つ「生きられた現実」という様相からの乖離を心理的距離とし、興味深いたとえを展開する。すなわち、ある人物が瀕死の状態にあり、数名の者が傍らにいる。まずはその人物の妻、そして脈をとる医師、職業上やってきた新聞記者がいる。この順で、死という出来事に対する心理的な距離は増大する。そして、もっとも遠いところに、たまたま居合わせた画家がいる。彼には対象との間にあまりの心理的隔たりがあり、彼の姿勢は完全に見る人のそれであるにもかかわらず、出来事の全貌を知ることはできない(*2)。

展示風景より 撮影=友枝望

 七搦は制作を通して対象の中心に宿る何か、おそらくは死を、心理的に遠ざける。そのいっぽうで、物理的には至近距離からつぶさに見つめ、写し取り、さらには、謎として再提示する。その結果、ドローイング作品が明らかにするように、彼女が促す凝視が表面を突き破ったとしても、露わにされた内部はあくまで外皮の容貌から想像されたものでしかない。

 美/醜や、生/死。彼女の作品がこうしたアンビバレントなものとして語られがちなのは、均衡を積極的に生み出す、彼女の制作によるものと言えるだろう。そして、具体的な情報を欠いた抽象的とさえ言える緊張状態に、観る者は訳もわからず反応してしまう。私たちが会場で感じるある種の不穏さは、そうした身体的、もしくは触覚的な反応なのではないだろうか。

*1──山下樹里「アペルト08 七搦綾乃」(展覧会リーフレット)金沢21世紀美術館、2018
*2──オルテガ・イ・ガセット『芸術の非人間化』川口正秋訳、荒地出版社、1968、pp. 17-21

編集部

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