アンバランスな「始まり」の芸術とその極意
私たちは近代とどのように新たな関係を結び、日常をアップデートしていくことができるのだろうか。韓国のコンセプチュアル・アーティスト、ギムホンソックの展示は日々の生活を構成する見慣れたモノたちのなかにあって、私たちの欺瞞に満ちた思い込み=社会的合意が何を見失い、あるいは抑圧しているのかを、ユーモアに富んだ技法で問いかけてくる。
小沢剛(日本)、チェン・シャオション(中国)とともに結成した「西京人」──芸術を愛する者たちが身ひとつで入国できるアジアの小さな都──の一員でもある彼は、一貫して「自分が正しいと信じている価値観が、決して自明ではなかったりする」ことに目を向けてきた(*1)。
本展の会場には「不適切」シリーズと称する3つの彫刻が立ち並ぶ。「ツイスト・バルーン」を模し、複数の細長い黒い風船が巧みにバランスをとりながら寄りかかる。それらは、どれもびくりともしないブロンズ製だ。軽やかな風船のイメージと堅いブロンズの彫刻。安価なゴミ袋に見えた「ヨコハマトリエンナーレ2014」の《クマのような構造物―629》や風船を積み上げたような《八つの息》を想起させる。風船に見えるものは風船ではなく、ゴミ袋に見えるものはゴミ袋ではない。「美術」としての「彫刻」とそうは見えない雑多な「日用品」が、ブロンズという素材の持つ質感を介して、互いのイメージを軽やかに裏切り、パラドキシカルな斬新さを生み出している。
3つの彫刻の背後にはペイントローラーとアクリル絵具で塗られた赤い壁画《無題》が舞台の背景幕のように壁を彩っている。壁画は無造作に塗られ、「不完全さを完遂する」という彼の芸術の理念を体現しているかのようだ。ギムホンソックは言う。「完全(パーフェクト)なものはいつも間違っている」と(*2)。
では「完全」なものとは何か。例えば、それが正統な「オリジナル」として権威を放ち社会に君臨している近代的な価値観、「大人」になりきれないものを未成熟として評価しない価値観、あるいは「美術」とその外部の境界を画定してきた価値観だとしたらどうだろうか。
ギムホンソックの手法のユニークさは、「完全」なものとその外部として設定されてきたものを絶妙な危ういバランスのなかで共存させているところにある。「美術」において、その鍵を握っているもののひとつが、先述した「素材(マテリアル)」である。伝統的な「美術」の「素材」を別のイメージによって流用すること。彼にとって、マテリアルは政治的であり、社会的態度であり、技法(マナー)なのだ。
加えて、《subsidiary construction》(2017)や本展の《The Dwarfish Act》(2018)に見られるように、段ボール箱、パッキングテープ、ビニール袋といった、「美術」を支えながらもその外部として認識されてきたモノたちが表舞台に登場している点にも注目したい。伝統的な「美術」の内と外を不安定な仕方で遭遇させ、それによっていまにも崩れそうなアンバランスな作品が、見る者の先入観を打ち砕く。
さらにここで、かつて金沢21世紀美術館に展示された《これはうさぎです》(2005)や《ミスター・キム》(2012)を思い出してもよい。前者はウサギのコスチュームを着て床に寝転ぶ「韓国生まれの労働者、Mr. B」という設定で、彼は不法滞在者だが美術館のパフォーマンスに参加し時給が支払われることになっている。後者は彼がコンテポラリー・ダンサーと称して雇った(ホ―ムレスを想起させる)パフォーマーである。とはいえ、いずれも中身は「空っぽ」だった。これらが印象的なのは、「社会」の外部に生きる者たちを演じる彼らの形象が、現代社会のメタファーであると同時に、クレア・ビショップが言うところの「委任されたパフォーマンス」をはじめ、数多くの美術/館で働く人々とともに成立している現代美術の現状をシュールに再現していたからではないだろうか。
ギムホンソックは欧米社会の価値観や慣習をたんに否定しているのではない。むしろ、彼の作品の魅力は、ウィットに富んだ手法によってそれらと新しい関係を結び、「美術」をアップデートしているところにある。
このことは、ギムホンソックがこれまで「オリジナル」として流用してきた作品が、ヨーロッパではなく戦後のアメリカ美術であることからも明らかである。大衆文化の象徴であるバルーンアートを現代美術に変えたジェフ・クーンズの《バルーン・ドッグ》やロバート・インディアナの《ラブ》は、選ばれた「オリジナル」としての「アメリカ」であり、ギムホンソックの作品はそれへの風刺でもある。
唯一の真なる「起源(origin)」の同定に向かうのではなく、複数の錯綜した「始まり (beginning)」を想定すること。エドワード・サイードなら、「始まり」とは世界と再び接続する行為であり、そのなかにこそ作家=知識人が立ち現れるのだと言うだろう。ここでいう「知識人」とは「社会に積極的に関与し、社会と人々の精神構造の根本的変革を目指す活動家」(グラムシ)に近いもので、「歴史や慣習によって押し付けられる系譜的役割を否認することを任務とする」者たちを指す。
1945年以来、韓国はアメリカを「参照し、模倣し、その文化を翻訳することによって自国のアイデンティティを築き上げてきた」。ギムホンソックの作品は、この「翻訳」を通じた数々のアンバランスな組み合わせのうちに成立する、今日の韓国の日常と芸術の映し鏡でもある。そしてそれは、アメリカと韓国という、あるいは翻ってアメリカと日本という「2つの文化の間にある可能性とオリジナリティの問題」をめぐる対話へと私たちを導く営みでもあるだろう。
そもそも私たちの日々の生活はまさしくアンバランスな組み合わせのなかで切り拓かれている。《不適切》であることは、必ずしも誤りや失敗を意味しない。ギムホンソックの世界がどこか愉快で先鋭的だとすれば、それは「完全」なものとそうでないものとの出合い直しのなかに、豊饒な可能性があることを物語っているからではないだろうか。
*1──https://www.cinra.net/interview/201606-saikyojin?page=2
*2──https://vimeo.com/247419856