リトグラフとサクラクレパス: 純粋さと「民主化」のあわいで
マイケル・フリードは1965年にモーリス・ルイスの作品について次のように書いている。
「あの滲ませる技法(the stain technique)は、描かれたイメージと織られたキャンバス地とを一体化させる。あたかもイメージがキャンバス地の上にスライド・プロジェクターで投げかけられるかのように。キャンバスの実際の織り目はくまなく見えている状態だ・・・滲んだイメージと、生のままのカンヴァス地はお互いに不可分である」。(*1)
その数年後、ドイツのデュッセルドルフでひとりの若者がスライド・プロジェクターを用いて絵画をメディウムのくびきから解放する術を模索していた。イミ・クネーベルは当時を振り返って次のように語っている。
「白はそれだけでもうすでによけい(too much)だったんだ! だから光を加えてみた。白はよけい。物質はよけい。そしたら光もまたよけいだった。そこで壁に直角ないし正方形だけを描こうと試みることにした。結局はそこに寸法だけを書き込むに至ったんだけど」。(*2)
プロジェクターつながりで2つだけ例を挙げるにとどめるが、60年代のこのあたりが20世紀の絵画史におけるいくつかの転換点のひとつであることは間違いない。絵画は物質として存在するのか、知覚として存在するのか、それとも概念の中にのみ生じるものなのか。
よく知られているように、クネーベルは純粋な絵画を存在しえないものとして放棄してしまうのではなく、その後もただひたすらに絵画に取り組み続けるのだが、そのとき彼を救ったのは、ちょっとした失敗であり、少しでも角度を違えて見直してみることだった。彼は壁に正対させていたプロジェクターを斜めにすることで浮かび上がるいびつな矩形に絵画の可能性を感じ取った。純粋さを志向すると同時に、そのなかで失敗すること。ノイズを取り入れること。したがって、クネーベルのその後の作品において、わずかな刷毛目や、あるいは合板のパネルなどの素材そのものの「模様」はノイズでありながら、むしろ重要な手掛かりとなっていく。そこで重要なのは、いったん消失することさえ目論まれたメディウムが、別のかたちで、別の方法で回帰してくることであり、それを刷新し続けようとする意志である。
この50年ほど前の話の流れに、大塚泰子の、どこかほのぼのとした小ぶりな1枚を置いてみる。ちょうど人の肌色を思わせる、柔らかなアールの付いた6角形のそれは、どう見ても生のままのキャンバスのようだ。ところどころ黒い斑点があるのもまさしくコットンキャンバスの地がそのまま見えているように思える。しかし、じつのところこの作品はキャンバス地に擬態するかのようにリトグラフの技法によって仕上げられている。
その隣の、今度は水平に茶色い帯が並ぶ作品も同様にリトグラフが用いられており、画家の手跡を感じさせずに、キャンバスとその色面はほとんど一体化している。ちょうどフリードがモリスの作品について指摘したように。しかし、おのずから重力の働きを感じさせるモリスとは違って、大塚の小ぶりなキャンバスはぽかんと色面のみが浮かび上がっているような印象を与える。
その印象は、横に長く狭い、かつてボタン屋だったこのギャラリーの真ん中で大部分を占めている青い箱についても当てはまる。壁にかかった版画的絵画とは違い、こちらの箱状の作品は波がさざめくように絵具の物質感を残している。しかし、様々な青の中から選ばれたサクラクレパス(あの、なつかしの、クレパス!)の色彩は、この青い物体が膨張しているのか、それとも小さくなっていくのか、重いのか、軽いのか、わからないまま、その波打際にあるようだ。波打際といえば、ギャラリーの2階にぐるりと並ぶ、アグネス・マーティンを思わせる水平の、しかし重ねて刷られた色の帯は、たゆたう水面のように上下している。
水へのアナロジーを導くのはここが港を臨む町だから、というのはいささか安直かもしれない。しかし大塚はここで、ちょうどあるコップから別のコップに水を移し替えるときのように、慎重に形式とメディウム、知覚と物質、そしてコンセプチュアルな作品のあり方を、あれこれと移し替えてみて、そのときにあふれてしまう、あるいは残ってしまうノイズのようなものを手掛かりにその器そのものを確かめながら一つひとつ作品化している。
水をばしゃばしゃかける。ハンドルをぐるぐる回す。できるだけ滑らかに、水平に。刷毛でなぞる。スポンジでなでる。ローラーを転がす。それらを繰り返す。だいぶ省略したけれど、そうして、ひとつのイメージが、リトグラフという技法によって紙に定着され、目の前に現れる。それは初めて見るとちょっとした奇跡のように思える(リトグラフの制作方法をぜひ動画で見てほしい)。
こうした一連の所作の繰り返しによっていろいろなものが生まれる。私たちのいろいろな営みの多くもそういう一連の動作によって成り立っている。それが営みの地平を超えて、ひとつの方法になったとき、いささか古臭く響くかもしれないが、それを「メチエ」と呼んだりする。ひとつの靴を仕立て上げる、パンを綺麗に膨らませる。それは、だいぶ見えづらくなってしまったけれど、それでもまだ町のそこここにまだ残っていたりする。大塚のしごとは、こうしたメチエを通して、そして同時に、サクラクレパスという遠くて身近な記憶を通して、移ろい変わっていく町の景色にも接続されている。
作家であり美術史家のクレイグ・スタッフは、1960年代から70年代にかけてのブリンキー・パレルモの布の絵画や、カレン・カーソンのジップ絵画(ニューマンのそれではなく、文字通りに「チャック」のジッパー)に言及しながら、その「芸術家としての創造性を志向しつつ、あえて低級(downgraded)の要素を積極的に取り込もうとする民主化効果(democratizing effects)こそ、グリーンバーグの批評や、ミニマリズムやコンセプチュアル・アートといった動向がともに息切れしてしまった後で、いかにして抽象絵画に関わるかについて示唆的であって、そして、芸術的な形式主義に対して真逆の方向を取る方法だった」(*3)と指摘している。またしても50年前についての話題を持ち出すのもどうかと思うが、それでも、いまなお、やはり美術は「純粋さ」を希求し続け、そしてまた、たえず「民主化」を必要としているはずだ。その間でこそ「メディウム/メディア」は生まれ、更新され続ける。
追記:本展はBotão Galleryの最後の展覧会となった。経緯については以下が詳しい。『artscape』「街の変わりゆく景色をどのように残すべきか」吉田有里(MAT, Nagoyaプログラムディレクター)
*1――Michael Fried, “Three American Painters: Kenneth Noland, Jules Olitski, Frank Stella,” (1965) in Art and Objecthood: Essays and Reviews, The University of Chicago Press, 1998, p.230.
*2――Imi Knoebel, conversation with Johannes Stüttgen in Düsseldorf on April 2, 1993 in Imi Knoebel: Works 1966-2014, Exh.cat., Kunstmuseum Wolfsburg, Kerber, 2014, p.50.
*3――Craig Staff, After Modernist Painting: The History of a Contemporary Practice, I.B.Tauris, 2013, p.48.