川端龍子(りゅうし)は1885年から1966年までの明治〜昭和期を生きた日本画家。当初は洋画家を目指し、ゴッホ風の、筆致を強調した《風景(平等院)》(1911)や、《女神》(明治時代)といった作品も制作していた。28歳で洋画への憧れから単身渡米するも、帰国後は日本画へ転向。その後、独学で日本画を習得した。
30歳で公募団体「再興院展」に入選し、2年後には同人に推挙。しかし、大胆な発想と筆致によって描かれた作品は、当時の日本画の本流とは異なる「会場芸術」と批判され、龍子は院展を脱退。29年に自ら「清龍社」を立ち上げる。そこで龍子は、批判的な意味合いで使われた「会場芸術」という言葉を逆手に取り、展覧会場で多くの人が鑑賞でき、時代性を反映させた大作を「会場芸術」と称し、次々と作品を発表していくこととなる。この時代性について、山種美術館顧問の山下裕二は「20代で新聞や雑誌の挿絵画家として活動していたことが、戦後の時事的な作品につながったのではないか」と語る。
本展は、初期から晩年までの代表作取り揃えたもので、大田区立龍子記念館以外では、12年ぶりの回顧展。14歳の頃に学校の課題として描いた《狗子》から、代表的な大作まで、約70点が並ぶ(会期中展示替えあり)。
ダイナミックさ、スケール感、スピード感が前面に出ている《鳴門》、空からイカやクラゲなどが降り注ぐ《龍巻》(1933)など、通常の日本画では描かれないような作品の数々。
特に、横7.2メートルの大画面《香炉峰》(1939)は、戦闘機を半透明にして、香炉峰を描くという龍子ならではの大胆な発想を見ることができ、山下はこれを「戦争画のなかでも異色。戦争記録画ではあるが、自分の表現意欲のほうが優っている」と評する。
またこのほか、終戦の年に自宅に爆弾が落ちた爆弾で吹き飛ぶ野菜を大画面で描く《爆弾散華》(1945)や、金閣寺の炎上事件をいち早く描いた《金閣炎上》(1950)、中尊寺金色堂に安置されていた藤原氏四代の遺体の学術調査が行われた直後に現地に赴き構想した《夢》(1951)など、ジャーナリスティックな視線を読み取ることができる作品の数々も、龍子を理解するための大きな要素のひとつだ。
洋画的作品から会場芸術、そしてジャーナリスティックな作品まで、振れ幅が大きく、多面性がある画家・龍子。そのバラエティーとスケール感を会場で体感したい。