東京都渋谷公園通りギャラリーでは現在、展覧会「語りの複数性」が開催されている。本展では、大森克己、岡﨑莉望、川内倫子、小島美羽、小林紗織、百瀬文、山崎阿弥、山本高之の8作家を通じて、個別の身体や経験を通した様々な異なる「語り」のかたち、その可能性が提示されている。会期は12月26日まで。
情報があふれる現在だからこそ貧しくなっていた、様々な語りのあり方と、その語りを紡ぎだす身体を想像する展覧会が、東京都渋谷公園通りギャラリーで開催されている。
本展「語りの複数性」は、キュレーターの田中みゆきが企画担当したもの。タイトルにある「語り」とは、言語に限らず、人がそれぞれに持つ世界との向き合い方や、その結果として現れる広い意味での「表現」全般のこと。参加アーティストは、大森克己、岡﨑莉望、川内倫子、小島美羽、小林紗織、百瀬文、山崎阿弥、山本高之の8名で、写真や絵画、模型、描譜、映像、音といった様々な形態を通じて、作家自身の「語り」や、他者の「語り」に目を向けた作品が会場を構成する。
冒頭を飾るのは、川内倫子の《無題》(シリーズ「はじまりのひ」より)(2018)だ。川内の出産体験を気づきとして制作された写真絵本『はじまりのひ』を題材としたこの展示空間には、写真絵本を構成するテキストと写真にあわせ、UV印刷された4枚のパネルが展示。目が見える人も見えない人も触ることによって、写真を触覚で感じ取ることがどのようなことかを体験できる。
田中はこの川内の展示空間を「展覧会を象徴するような場所」だと話す。「写真は目が見えない人からは自分と関係のないものだと思われることが多いです。どんな写真かという話になっても、どうしても『被写体についての情報』の話に終始してしまいがちで、写真全体の『質』や『空気感』の話にはなりにくい傾向があります。そうしたなかで、あえて抽象度があり、寓話的でもある川内さんを選びました。写真は瞬間の切り取り方に作家性が表れていて、それを目が見えない人に視覚以外の感覚でどう感じてもらえるかが課題でした。そこから何かわかりあうことができたら」。
この試みのなかでは、たとえば、目が見えない人が、冬の日にガラスに残った手の跡をパネルを通じて初めて理解するなど、身体の違いを超えた経験の交流も起きたという。
展示を準備するなかで、目が見える人と見えない人が集まり、『はじまりのひ』に対する様々な「見方」を持ち寄り、自分なりの写真を見る経験を立ち上げることを試みる読書会も行われた。展示会場では、目が見えない4人が読書会のなかでとらえた『はじまりのひ』が、言葉や絵などで展示されている。なかには、写真から感じた「光の言葉」について思いを巡らせたものや、写真の印象を綿を使った触れる展示物で表現したものもあり、同じ写真がもたらす想像の幅広さを感じさせる。
川内の作品を抜けた先には、大森克己の写真作品が一直線かつリズミカルに並ぶ。《心眼 柳家権太楼》(2019)と題された一連の作品は、按摩の男性が突然目が見えるようになるも、妻や自分の容姿に関する評価に振り回され、やがてオチを迎えるという落語の古典演目に基づくもの。大森は落語家を「語りが乗る身体」としてとらえ、30分の上演の様子を31枚の写真で表現した。
演者である柳家権太楼は何もない空間で落語をしており、当然ながら鑑賞者はその音声を聞くこともできない。落語家の「身体」そのものにフォーカスすることで、鑑賞者は誰しも想像力を働かせることとなる。
一枚、四枚、三枚……というように、写真は噺の場面に応じて緩やかにまとまり、あるいは独立する。ここでも川内の展示と同様、写真の「シークエンス」に焦点が当てられているのは興味深い。「この写真群は、ろう者が落語を見る経験と重なる部分もあると思いますが、想像力が余白を補う経験は、じつは連なる写真の目に見えない『間』を想像することとも重なるのでは」と田中は問う。
大森の作品の後には、小島美羽、岡﨑莉望、小林紗織、山崎阿弥、山本高之、百瀬文の作品が続く。
特殊清掃の現場に携わる小島美羽は、3つのミニチュアを展示。いずれも孤独死の現実を感じさせるような生々しい作品だが、じつはこれらは小島が印象に残った現場の特徴を組み合わせ、語り直したもの。フィクションとドキュメンタリーのあいだにある作品から、生と死が想像できる。
「孤独死は特別ではなく、誰にでも起きうること。それを表現するとき、写真だと生々しすぎたり、『ニュースで見たことある』で終わりがち。そこで小島さんは、個人の活動としてミニチュアをつくり始めたそうですが、結果的に、その創作物には小島さんの熱や労力が伝わり、より鑑賞者の想像を促すものになっています」と田中は話す。
音や音楽を聴くことで浮かんだ色や形を五線譜に描き、視覚化する「スコアドローイング」に取り組む小林紗織は全長30メートルにおよぶ新作を見せる。
田中が小林の存在を知ったのは、写真家・齋藤陽道を追った映画「うたのはじまり」で、小林が担当した「絵字幕版」を見たこと。「映像で音楽が流れる場合、字幕は『♪』や『ロック調の音楽』などと表示される場合が多いのですが、それは聞こえない人にどれくらい意味があるのだろうかといつも思っていました。それと違い、小林さんの絵字幕はろう者にも音が表している情景を想像できるものだと感じたんです」と田中は話す。
《私の中の音の眺め》(2021)には、街中の環境音や生活音、あるいは音楽などが色とりどりに視覚化されており、鑑賞者は音を想像しながら五線譜をたどることができる。うねりながらフラフラと進み、最後は螺旋を描くようにして鑑賞者を音の風景に包む、斬新な展示の方法も効果的だ。
渋谷の街に面した大きなガラス窓。背中側の壁面に体をつけると、そこからはザワザワとした音が振動とともに伝わってくる。山崎阿弥による《長時間露光の鳴る》(2021)は、音の響きや聞こえから空間を立ち上げる作品だ。鑑賞者が聞いていたのはバイノーラル録音によって、窓から見える範囲の渋谷で録音された音。見えているものとは異なる音が聞こえてくるギャップ。視覚ではなく、音を聞くことによって、身体による聞こえを変容させる。
田中は、「私たちは、見えているものの音しか聞いていないのではないでしょうか。この建物から一歩外へ出て耳を澄ますと電車の音が聞こえるのですが、普段はなかなか意識できていない。山崎さんの作品は、そんな視覚と聴覚の関係を考えさせます」と語る。
3つの異なる線描は、札幌在住のアーティスト・岡﨑莉望によるもの。自身のなかに複数の人格が存在するという岡﨑は、本展で3人の人格による3点の作品を展示した。線描という極めてプリミティブな表現だからこそ、その表現の違いが如実に表れている。
眩暈がするほど膨大な線からなる画面は、「見えているもの」をそのまま写しているという。面白いのがそのタイトルで、「シンプルな言葉を選ぶ人」や「やたら難しい漢字を使う人」など、作品と同様に描き手のキャラクターを伝えてくる。
誰もが経験を持つであろう悪夢。それを他人と共有する試みを見せたのが山本高之の《悪夢の続き》(2020)だ。本作では、二人一組のペアが登場し、ひとりは自分が見た悪夢を語り、もうひとりがその続きを創作し、ハッピーエンドへとつなげてゆく。
作家自身の方針で、会話に第三者は介入せず、映像はノーカットで流される。ときにぎこちなくなりながら進む、「他人の夢」という本来は共有しえないものを共有する時間を、映像のなかの二人とともに鑑賞者も体験することになる。
他者とのコミュニケーションの複層性を、主に映像作品によって扱ってきた百瀬文。本展では、その代表作のひとつとも言える《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》(2013)が展示されている。
聴者の百瀬と、ろう者の木下知威による「対話」を収めた本作。相手の口の動きを読んで会話をする木下を前に、百瀬は次第に、自身の発言を同じ母音を持つ言葉に置き換えて話し始める。その発言は、音声としては意味をなさないが、木下は口の動きや会話の文脈から、その意味を正確に理解する。「会話」とは、「言葉」とは、何なのか。聞こえる者と聞こえない者のコミュニケーションに、鑑賞者は自ずと加担することとなる。
多様性が叫ばれ、わかりあおうとする姿勢が重要視される現代。しかし本展ではそのように自己と他者を同一化させ、わかりあおうとするのではなく、それぞれが自分の立ち位置から異なる存在としての他者へと想像を伸ばすことの重要性が複数の「語り」によって示されている。
「共有を目的とするのではなく、それぞれが違うやり方で想像しているという、その事実自体を共有できたら。何かひとつの意味やあり方にみんなが合わせたり、引きずられることなく、それぞれの場所で踏ん張って、自分の想像を語ること。そうすることで、ともにいることの価値を感じてもらえたら嬉しいです」と田中は言う。
なお本展では建築家・中山英之がデザインした会場構成にも注目してほしい。通常展示には使用されない道路に面したウインドウや細長い廊下など、「展示室」として規定された空間から飛び出し、空間の複数性を肯定することによる展示の可能性を持つ場が見出されている。