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2016.4.24

山内宏泰インタビュー②:東北の若手支援と美術館のこれから

発生から間もない東日本大震災の被災現場を取材し続け、記録を地域の未来に生かそうと、異例の展示方法を試みたリアス・アーク美術館(宮城・気仙沼)の常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」。同館の山内宏泰学芸員へのインタビューにて、被災現場写真に添えた長文のエピソードや「被災物」ストーリーの創作、そして自然との共存による「減災」について語ってもらった。今回は、リアス・アーク美術館のその他の活動について、また自身の考える学芸員やこれからの美術館のあるべき姿についてお届けする。

「歴史・民俗資料常設展示 方舟日記(はこぶねにっき)」(リアス・アーク美術館)の展示解説イラスト 作画=山内宏泰
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東北の若手作家を支援する地域型美術館

──リアス・アーク美術館の常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」が話題を呼んでいますが、美術館自体やその他の活動について教えてください。

1994年に開館してからこれまで年間約10本の企画展を開催していて、この規模と予算の美術館としては、驚異的な数の事業を展開しているのではないでしょうか。以前は地元の人やリピーターのお客さんがほとんどで、来場者は多くて年間3.6万人でした。しかし震災後、美術館の客層や動員が劇的に変化しました。震災の2年後に再オープンした2013年には約7万人の動員を記録し、お客さんの大部分が地元の外部から訪れています。

そのため震災後はすっかり美術館そのものの存在意義が大きく変わってしまいました。めったに人が来なかった2〜3月に、近年では大量の人が訪れるようになりました。以前は地元の子どもたちの公募展を開催していましたが、多くの人が訪れる震災のあったその時期にこそ美術館としての仕事を見てもらいたいと思い、2015年度から東北・北海道在住の若手作家の個展シリーズ「N.E.blood 21」の開催時期を変更しました。

「N.E.blood 21」は東北・北海道の気質、21世紀という意味の個展シリーズで、年間を通じて2002年から毎年開催しています。この10年間で60人近くの作家を紹介してきました。立ち上げたきっかけは東北には若い現代美術の作家が作品を発表できる場が極端に少なかったからです。発表の場を求めて作家が地元を離れていってしまうばかりでは、地方の芸術文化の先行きが思いやられる。それなら私が企画しようと思い立って始めました。

「N.E.blood 21 Vol.57 齋藤ナオ展」の展示風景 撮影:リアス・アーク美術館

出身や国籍は問わず、現在東北・北海道在住で制作活動をしている作家を対象としています。条件は、頑張っているのに報われていない作家。質の高い作品を制作し、将来も作家として活動していくと思われるのに、発表の機会がないために地元から離れざるをえない。そんな才能を持った作家の流出を防ぎ、彼らが活躍してく足がかりをサポートしていきたいという思いで取り組んでいます。

若手の人たちには作家の必要条件として「作家としての社会的役割の認識」と「作品を見せる責任」を伝えています。作家業というのは基本的に自営業だと私は思っています。だから自分で作品について文章を書き、自分で歩いて自分の作品を営業するのは当たり前のことです。そして、自己満足の表現に陥ることなく人に作品を見せる以上は「見せる責任」を自覚しなくてはなりません。まして公立美術館として税金を使っているリアス・アーク美術館での企画展ではなおさらです。

──2002年に「N.E.blood 21」シリーズが開始されてから10年以上経ちますが、東北・北海道の作家たちを取り巻く環境はどのように変化しましたか?

リアス・アーク美術館の「N.E.blood 21」では、作家に展覧会への参加の打診をし、作品制作、搬入、撤収と作家にすべて担当してもらいます。そして、個展を開催してくれたことに対して謝礼をお支払いしています。作家に作品制作のみを依頼する公立美術館が多いなか、リアス・アーク美術館の「N.E.blood 21」は、ほかに例をみない運営をしていると思います。実を言うと、美術館側から作家を探すことはめったになく、作家が作家を紹介して積極的に参加してくれています。そうやって東北の作家同士のネットワークが構築されていきました。

「N.E.blood 21」が立ち上がる前は、東北の作家たちはみんな孤独に作家活動をしていたようです。このシリーズによって同じような仲間が活動していることを知り、作家同士で刺激しあったり、相乗効果がありました。立ち上げ当時は東北在住のみでしたが、その後も北海道の作家から参加したいという要望があり現在に至ります。実はリアス・アーク美術館のある三陸と北海道には文化的な境界がありません。そのため今では同じ文化圏として東北・北海道と一括りにして開催しています。

「N.E.blood 21 Vol.57 齋藤ナオ展」の展示風景 撮影:リアス・アーク美術館

地元の作家と美術館の関係をきちんと築いていき、作家が地元で作品制作をして発表、そしてその活動を地元の美術館がバックアップする。将来的にもこのようなサイクルを循環させていきたいと思っています。

「N.E.blood 21」で紹介した若い作家たちもいずれ成長して中堅どころの立派な作家になっていきます。初年度に紹介した作家は今ではもう40代後半の年齢です。そこで折に触れて展覧会への出品をお願いすると、皆さん喜んで引き受けてくれます。恩返しの気持ちということもあるかもしれませんが、そんな作家たちが美術館にとって大きな財産です。だから若手作家がやがて立派な作家になった時に、「原点はリアスだったんだよ」って言ってくれることが美術館としての本望です。

「表現者」である学芸員

──専門的な研究活動に従事される学芸員が大半のなか、山内さんのような美術館学芸員さんというのは、従来の役割とはまた違う、展示を通じて新しい表現を生み出していく立場というような印象を受けます。ご自身ではどう考えていますか?

そうですね。でもそれはもともとなのです。私自身が作家活動をしているというのもあって、展示解説のイラストも私が描いています。でも確かに、街の観光解説看板のイラスト作画など、何から何まで学芸員が引き受けるのは普通では考えられないと思います。だから気仙沼では、恥ずかしながら「天才山内君」と呼ばれることもあります。おそらく地元の人にとって私のような学芸員はみんなの思いをかたちにするシャーマン的な存在なのかもしれません。誰しもまちづくりにアイデアや思いは持っているけれど、それを具体的に可視化したり実現することができない。でも、私は彼らの想像を越えてものをかたちにすることができるから、頼られるのだと思います。だから、むしろ気仙沼では一般的な学芸員の仕事について知らない人が多いのではないでしょうか。

目黒区美術館での展覧会会場風景 撮影=後藤充 写真提供:目黒区美術館

私が思う学芸員とは、人とのコミュニケーションを必要とする「伝える」仕事であり、展示というのはものを使った「表現」です。そして美術館は新しいものを「生み出す」場所です。リアス・アーク美術館では館内のほぼすべての展示であるとか、あらゆるものを総合プロデュースしています。というのも、学芸員に着任したときから、現状の美術館や博物館の企画の外注態勢や展示方法に疑問を持っていたからです。特に「人を動かす」目的で展示をデザインするならば、従来の方法では通用しないと思っています。だから今回の震災の展示も客観的な情報を並べるだけではなく、必然的に「伝える」デザインとなりました。

リアス・アーク美術館は、石山修武が1995年に日本建築学会賞作品賞を受賞した建築物として注目されていましたが、展示空間としてはとても不便な構造をしていました。そのうえ地震で激しく損傷し、無念にも避難所としてもまったく機能しませんでした。それまではそんな建築に悩まされてきましたが、震災をきっかけに同世代の建築家や他分野の人たちとやり取りを繰り返しているなかで、同じように社会の問題を見つめ、考えを共有している人たちがいるということを知りました。その社会問題が露呈されたのが、今回の震災だったのだと思います。

そこで、様々な立場の人たちが接点を持って関わりあおうとするときに、私のような立場の人間が役立つのではないかと思いました。なぜならいわゆるアート、芸術系の人は少しずついろいろなことを勉強しているため、それなりに物知りで、かつアイデアや解決策をひらめいたイメージを表現したり、感覚的に物事の核心を突いたりします。このような発想の転換や媒介役というのが人間社会における本来のアーティストの役割なのではないかと思うのです。

目黒区美術館にて

二次表現を促進する美術館

──地元の若手作家を支援したり、地域の未来のために災害の記録展を常設したりと、社会のなかで美術館は重要な役割を担っていると思います。これからの美術館があるべき姿、また期待していることを教えてください。

美術館は表現する能力を持っている人が訪れる可能性が高い施設であり、展示を通じて二次表現への発展を期待しています。つまり美術館で見て感じたこと、学んだことから自分の表現につなげてほしいと願っています。過去の一例を挙げると、鎌倉から訪れた小学生の女の子が被災物のくまのぬいぐるみを見た後、それに共鳴して自分のぬいぐるみと重ね合わせた絵本を描きました。

「ぬいぐるみ 2012.3.23気仙沼市内の脇2丁目」
うちの子がね、大切にしてた〝ぬいぐるみ″があったのね。それをね、すぐ帰れると思って、うちに置いてきてしまったのね・・・ うちの子がね・・ポンタが死んじゃったって、泣くの。あの子にとっては、たぶん親友だったんだよね・・・ あれから、うちの子、変わってしまってね。新しいの買ってやるからって、おばあちゃんが言うんだけど・・・いらないって、ポンタじゃなきゃダメなんだって言うのね。

このようにして鑑賞体験が二次表現に移っていくのが大切なのは、記憶や記録の媒体が常に更新されていく必要があるからです。たとえ1000年残る石碑をつくったとしても、そのメディアそのものが認識困難となってしまう。レコードだけを残しても、レコードプレイヤーがなければ再生できない。結局、記録媒体だけ残しても再生装置が伴わなければ記録を失うことと同じ問題が繰り返されてしまう。この記憶や記録はあくまでひとつの媒体ですから、これを再生するためには、人が人へ伝え、その人が次の媒体に変換してくれればいいということです。

ただそうやって変換するために能動的な思考にする「スイッチ」を入れ替える必要があると思います。例えば、道端に真っ赤な板が一枚落ちていれば、誰でもそれを板だと思いますが、まったく同じ板が美術館の壁に展示されていれば人は絵として鑑賞します。それは見る人のスイッチが入れ替わっているからであり、そのような仕掛けを展示に施すことが大切です。まさにそれこそ美術館が表現の殿堂として展示を公開する最大の理由だと思っています。

リアス・アーク美術館=写真・テキスト