印象派登場以前
19世紀前半は、「風景画」の常識が大きく変わった時代でもあった。それまで、自然風景は肖像画の背景(添え物)として描かれるか、あるいは聖書や神話のエピソードの「舞台」として、アトリエの中で多くのスケッチをもとにつくり出した「理想的な世界」を描くのが通例だった。
しかし、19世紀にブルジョワ階級が台頭すると、「風景画」をめぐる状況は大きく変化する。彼らは、鑑賞するのに知識を必要とする歴史画よりも、より身近でわかりやすい主題を好んだのである。風景画においても例外ではなく、架空の「理想世界」の風景よりも、身近な現実の風景をありのままに描いた作品のニーズが高まっていく。
また、産業革命と都市化が進むなかで、手つかずの自然や田園風景に対する憧れも人々の間で強くなっていた。それらを受けて、画家たちが目をつけたのが、パリ郊外に広がるフォンテーヌブローの森だった。
もとは王族の狩猟地だった森は、画家たちにとって絵の題材の宝庫だった。そして森の入り口に隣接するバルビゾン村を拠点としたことから、彼らは「バルビゾン派」と総称されるようになった。そんな「バルビゾン派」を代表するひとりが、カミーユ・コローである。
彼は、戸外の光の下で風景のスケッチを行い、冬にはそれを作品へと仕上げることを習慣としていた。《ヴィル=ダヴレーの牧歌的な場所──池畔の釣り人》は、彼の晩年の作品で、家族の別荘がある村が舞台になっている。描かれているのは、大きな池と、その前に立つ大きな樹、そして対岸に立つ家々など、ありふれた田舎の風景である。しかし、あたりに満ちる穏やかな大気と光の描写によって、平凡な風景は一篇の詩のような美しさを湛えたものとなっている。屋外でのスケッチのなかで、彼の心に刻まれた「感動」の記憶が、ここに反映されていると言えよう。
また、大気や光の描写への関心やけぶるような筆致による樹の表現は、印象派の先駆けるものであり、後の世代にあたるモネやピサロら印象派の画家たちに影響を与えた。
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