森ビル森美術館設立準備室やニューヨーク近代美術館(MoMA)で培った知見を活かしたアート小説で知られる作家・原田マハ。ペンネームの「マハ」は、ゴヤの《着衣のマハ》《裸のマハ》と同じで、スペイン語で「小粋な女」という意味があるという。文筆活動だけでなく『CONTACT つなぐ・むすぶ 日本と世界のアート」(京都清水寺、2019年)の監修も務めるなどキュレーターとしても活動している。
今回はそんな原田マハ作品のなかから、一枚の絵から生まれた4冊を、作中に登場した作品を所蔵・展示する美術館とあわせて紹介する。
『楽園のカンヴァス』
巨匠ルソーの作品の真贋に絡む、利害と情熱。
【あらすじ】
大原美術館で監視員として働く早川織絵と、MoMA学芸部長のティム・ブラウン。若かりし日のふたりはスイスの大豪邸でアンリ・ルソーの名作《夢》に酷似した絵に出会う。そして、この絵の所有権を賭けた真贋対決が始まった。手がかりは一日一章ずつ明かされる、ルソーの晩年を綴った謎の古書のみ。リミットは7日間。ルソーへの情熱を抱くふたりがたどり着いた真実、ルソーとピカソがカンヴァスに籠めた熱い想いとは。
作中でも言及されている通り、「ピカソにも敬愛された、素朴派の祖」ルソーは、いっぽうでは「日曜画家」と紹介される、評価の定まらない画家。そのタブローの下に、ピカソの「青の時代」の作品が眠っているかもしれない……という設定は、物語に作品を奪う人物と救おうとする人物を登場させ、どのように作品の評価はされていくかを自然と読者に伝えてくれる。
構想25年、ルソー没後100年にあたる2010年にパリに滞在して執筆された本作はまさしく、物語のキーワードでもある「情熱」を感じられる渾身の一冊。読んでいるうちにルソーが愛しく感じられ、その作品を一目見てみたくなるのは、原田マハの情熱と愛ゆえなのだ。
なお、本作の題材になった《夢》(1910)はニューヨーク近代美術館(MoMA)の常設展示作品。著者の原田マハも滞在したことのある美術館で《夢》に対峙したなら、物語の主人公たちのようにこの絵とルソーの虜になることだろう。
『暗幕のゲルニカ』
反戦の象徴、ピカソの《ゲルニカ》を隠したのは誰か。
【あらすじ】
2003年某日、国連本部のロビーに飾られていたピカソの《ゲルニカ》のタペストリーが、突然姿を消した。ゲルニカ空爆を受けて製作された反戦と平和のシンボルとも言える20世紀の傑作を、いったい誰が、何のために隠したのか。スペインと大戦前のパリと20003年のニューヨーク、《ゲルニカ》とともに生きたドラ・マールと八神瑤子のふたりの人生が交差する。序盤の胸の痛み、中盤の緊張、ラストにハッとする一気読み必至の一冊。
原田マハ本人が幼少期より愛した画家、パブロ・ピカソの《ゲルニカ》(1937)が題材になった作品。暗幕がかけられていたことが問題になった「国連のゲルニカ」は、ピカソの監修のもと職人によって1995年に生み出された、オリジナルと違わぬサイズと構図のタペストリーのこと。
スペイン大戦前のパリのストーリーは、その愛人だったドラ・マールの視点で進行する。ピカソが《ゲルニカ》を描いた時代と八神瑤子がMoMAで「ピカソの戦争」展を企画する現代、すなわちゲルニカ空爆と9.11のふたつの時間軸が重なり合う構造ゆえに、《ゲルニカ》という作品の持つ意味と時代を超えた力が際立っている。ここでは、過去と現在をつなぐ「鳩」が果たしている役割にも注目したい。また、物語の終盤で前面に押し出される「アートは誰のものなのか」という問いは、作品が置かれる場所にも関わっており、まさに《ゲルニカ》を題材にした物語と呼応する主題といえる。
作中でも描かれていた通り、国を跨いで守られてきた《ゲルニカ》(1937)は、現在スペイン・マドリードのレイナ・ソフィア芸術センターによって管理されている。タペストリーについては、ニューヨークの国際連合本部国際連合安全保障理事会議場前で見ることができるほか、同じ寸法のタペストリーを群馬県立近代美術館が所蔵しており、毎年7〜8月に一般公開を実施している。
『サロメ』
月の姫サロメが、恐ろしく、蠱惑的に描かれたのはなぜ?
【あらすじ】
タブローが主流の時代に挿画作品のみで評価を受け、今日にもその名を残す画家オーブリー・ビアズリー。女優志望の姉・メイベルは、病弱な弟の成功を後押しする一番の理解者「だった」。ビアズリーが絵を発表するようになると、男色家オスカー・ワイルドとの出会いや、その戯曲《サロメ》の挿画を手掛けることで、日々の歯車は思いもよらない方向に回り出す。戯曲を傑作にした力を持つ絵の数々、その完成を導いたのは誰だったのか。恋や愛、羨望、憎しみの感情が巡る、危うくて切ない『サロメ』の物語。
『サロメ』というまさにそのままなタイトルも、読み進めていくと安直なものでないとわかるだろう。本作の美点はまさに、『サロメ』を題材にしながら『サロメ』と同じ主題を扱っているところにある。この構図を成立させているのは、主人公でもあるビアズリーの姉・メイベル。彼女の存在がこの物語に、近親相姦という「タブー」と恋した女性の危うさと「狂気」を添えている。実在する人物をキャラクターに仕立て『サロメ』の物語を紡いだところに、史料の扱いに長けた原田マハの手腕が光る作品だ。
本書の装丁にも注目したい。『サロメ』の挿絵に、オーブリーが装画を手がけた「イエローブック」が組み合わされており、挿絵はハードカバーでは《クライマックス》 (1894年)、文庫版では《ダンサーへの報酬》(1894年)がそれぞれ採用されている。
この《クライマックス》 《ダンサーへの報酬》は国内では熊本県立美術館が所蔵しており、現在開催中の特別展「ビアズリーの系譜 アールヌーヴォー、日本の近代画家たち」(下関市立美術館、~2023年1月29日)で鑑賞することができる。
『リボルバー』
「ゴッホの死」というアート史上最大の謎に迫る。
【あらすじ】
パリ大学で美術史の修士号を取得した高遠冴は、ゴッホとゴーギャンの関係性を探求して博士号を取ることを目標に、オークションハウスCDCに勤める日々を過ごしている。そんなある日、冴たちの元に一丁の錆びたリボルバーが持ち込まれた。その金属の塊が持つ付加価値は、「あのフィンセント・ファン・ゴッホの自殺に使われたもの」というもの。嘘か誠か、調査に乗り出した冴たちがたどり着いたのは、ゴッホとゴーギャンの「秘密」だった。
「ゴッホの拳銃自殺」という逸話と、それに使われたリボルバーが約6千万円で落札されたという出来事に基づいた本作は、比較美術史の趣はもちろん、実在する名称「サザビーズ」が登場するなどアートマーケットに関する知識も随所に散りばめられている。
物語の世界に誘う秀逸なプロローグにはじまる本作の文章は、ゴッホの筆跡が持つ情感と、ゴーギャンの色使いのような懐かしさを感じさせる。読後、人の心を動かすふたりの天才画家の、「描くこと」に魅せられた人生が幸福なもであったことを願わずにはいられない。画家とその作品を愛しく感じさせる、原田マハ小説の魔法が十分に感じられる一冊と言える。
ゴッホが描いた7枚の《ひまわり》のうち、作中でゴーギャンが欲っした1枚目は、表紙にもなっているロンドンナショナルギャラリーに所蔵の《ひまわり》(1888年)。裏表紙になっている《ひまわり》(1888年)は、この1枚目をゴッホ自身が模写した作品と言われており、日本のSOMPO美術館が所蔵している。
また、ゴーギャンが描いた《ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ》(1888年)はオランダのゴッホ美術館が所蔵しており、思わずこのふたりの画家の関係に思いを馳せてしまう。タヒチで描かれたひまわりのタブロー《肘かけ椅子のひまわり》(1901年)は、ロシアのエルミタージュ美術館が所蔵しており、じつは本作のカバー下でも楽しむことができる。