大都市ローマの底辺で──少年像の誕生
カラヴァッジョ(本名・ミケランジェロ・メリージ)が、故郷ミラノから、ローマへとやってきたのは1590年代半ば頃と推測されている。当時のローマは、プロテスタントに対する巻き返し(対抗宗教改革)を図るカトリック側の中心地として都市や道路が整備され、さらに1600年の大聖年に向けて、多くの聖堂や宮殿の建設・改修が進められており、その仕事を目当てに、ヨーロッパ各地から多くの芸術家たちが集まってきていた。カラヴァッジョもそのひとりだった。この文化芸術の中心地で、一旗揚げたい。20代の彼は、そんな野望に燃えていただろう。しかし、ほとんど無一文で、ツテもないまま出てきた彼にとって、それは容易いことではなかった。
貧困にあえぎながら、彼は助手として様々な工房を渡り歩く。ミラノで身に着けた絵の技術──モチーフを綿密に観察し、見えるままに、緻密に写し取る描写力と、醜いものを美化せずにそのままに描き出す自然主義の伝統とは、大都会ローマにおいて、生きる道を切り開くための武器であり、また拠り所でもあっただろう。
やがて、独り立ちした彼は、人物表現の伝統の根強いローマ画壇の傾向に合わせ、自身の得意な静物描写と単独の少年像とを組み合わせた、独自のスタイルの作品を編み出し、路上で売るようになる。現在、カラヴァッジョ初期の代表作として数えられる《果物籠を持つ少年》も、このような状況のなかで生まれた。
しかし、貧乏に苦しむのは変わらず、《病めるバッカス》では、鏡に写った自分自身の姿をモデルに描いている。その後、彼は単独像だけではなく、《女占い師》や《いかさま師》など、複数の人物を描いた作品にも挑戦していく。そして1597年、ついに彼に転機が訪れた。