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2019.6.10

アニメーションを時間的経験から読み解く。仲山ひふみ評『スパイダーマン:スパイダーバース』

マーベル・コミックのマンガを原作とする「スパイダーマン」シリーズの最新映画『スパイダーマン:スパイダーバース』。同シリーズ初のアニメ作品であり、アカデミー賞長編アニメ映画賞を受賞するなど国内外で話題となった本作を、若手批評家の仲山ひふみがレビューする。

文=仲山ひふみ

『スパイダーマン:スパイダーバース』より © 2018 Sony Pictures Animation Inc. All Rights Reserved. | MARVEL and all related character names: © & TM 2019 MARVEL.
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『スパイダーバース』のフットワーク的分裂性

 今年3月に日本でも公開された映画『スパイダーマン:スパイダーバース』は、これまで幾度となく映画化、アニメ化、ゲーム化されてきたマーベル・コミックの人気作「スパイダーマン」の、意外なことに初となるフルCGアニメーション作品である。昨年12月のアメリカでの封切りの時点で観客と批評家から高い評価を受けた本作は、ゴールデングローブ賞最優秀アニメ映画賞、ニューヨーク批評家協会賞アニメ映画賞、アカデミー賞長編アニメ映画部門と権威ある賞を総なめにしている。日本の現代美術界隈で話題にされているのを見かけた記憶はほとんどないが、現在のハリウッド、あるいはそれを超えたグローバルな視覚文化のアクチュアルな状況を考えるうえでは無視できない作品のひとつだ。

『スパイダーマン:スパイダーバース』より © 2018 Sony Pictures Animation Inc. All Rights Reserved. | MARVEL and all related character names: © & TM 2019 MARVEL.

 タイトルの「スパイダーバース」とは、文字どおり「スパイダーマンたちの宇宙」を意味する。舞台は粒子加速器による実験の影響で時空が歪み、異なる次元のスパイダーマンたちが集まってくるようになってしまったニューヨーク。そこで新たにスパイダーマンとしての能力に目覚めた黒人の少年マイルス・モラレスが、別次元からやってきた頼りない中年のピーター・B・パーカーや、スマートな同級生ステイシー・グウェンなど、様々なスパイダー人間たちに助けられながら、悪の親玉キングピンの野望に立ち向かっていく。原作であるコミックスの時点で、ファンたちに親しまれてきた従来の主人公ピーター・パーカーを死なせ、このアフロヒスパニック系の新主人公マイルスを導入したことは「政治的正しさ」へのおもねりなのではないかという批判があったようだが、本映画版はジュヴナイル作品としての基本である成長物語のプロットに、マイノリティの社会的承認と自己アイデンティティの確立を促すようなメッセージを意図的に組み込んだものとなっており、「スパイダーマン」シリーズがもともとクラスのオタクっぽい少年つまり弱者が特殊能力を手に入れて人々の「親愛なる隣人」になっていくという話だったことを思い出すならば、むしろきわめて正当かつ必然的なキャスティングがなされていると言わねばならない。

『スパイダーマン:スパイダーバース』より © 2018 Sony Pictures Animation Inc. All Rights Reserved. | MARVEL and all related character names: © & TM 2019 MARVEL.

 実際、現在の視覚文化の状況においてエンターテインメント性の追求という目標が、ダイバーシティ系の理想の提示というもうひとつの目標と矛盾しないものになっていることは、『アナと雪の女王』や『ズートピア』などの近年のディズニー映画の成功を見れば明らかだ。加えて本作の場合には、それぞれ相容れない世界設定をもつ別次元からやってきたスパイダーマンたち──フィルム・ノワールの世界からやってきたスパイダー・ノワール、日本のアニメの世界からやってきたペニー・パーカー、動物ギャグアニメの世界からやってきたスパイダー・ハム──が同一のユニバースで共闘するという枠組みが示すように、文化多元主義の理想はあくまでもカーニバル的な魅力を備えたものとして提示されている。言うまでもなくこのような方法論は、同じマーベル・スタジオが制作に関わるシリーズ「アベンジャーズ」(MCU)にも共通するものであり、さらにアメコミの枠を超えて近年の日本のサブカルチャー作品のうちにも見出される要素である(例えば『仮面ライダーディケイド』や『プリパラ』)。楽しさが正しさによって損なわれるどころか、むしろ楽しさと正しさの相互フィードバックが生じているのが本作の強みのひとつであることは間違いない。

『スパイダーマン:スパイダーバース』より © 2018 Sony Pictures Animation Inc. All Rights Reserved. | MARVEL and all related character names: © & TM 2019 MARVEL.

 しかしながら以上のような物語論的特徴を掬い上げていくだけでは、『スパイダーバース』の成功の理由を十分に語ったことにはならない。というのも、本作に組み込まれたそのような理想的多文化主義の世界のイメージを、このヘイトスピーチとバックラッシュの時代においてなおいかに有効な仕方で、つまりエンターテインメント性を失わずに届けるかという課題は、本作の表現論的な強み、すなわちその圧倒的に精緻でありながら分裂的な、革新的アニメーション技術の支えなくしては、到底達成しえなかっただろうと思われるからである。そのことは本作をすでに見た多くの読者が同意する点だろうと思うが、付け加えて私はここで、いくつものアイデンティティが暗黒の大地の上で、また分裂症者の身体の上で渦巻く姿を輝かしく描き出した、ドゥルーズ=ガタリのあの『アンチ・オイディプス』という奇妙な哲学書のことを思い出さずにはいられない。同書でドゥルーズ=ガタリが資本主義の超コード化や再領土化に抗い欲望の流れを解放するための具体的なキーワードとして提案したのは、「欲望機械 machine désirante」だった。「欲望機械」は、本作のスパイダーマンたちの姿を表現するのにぴったりのタームであるように私には思われる。というのは、まさに『スパイダーバース』ではそれぞれのスパイダーマンたちは同じ世界(画面)にいながらも、それぞれがもといた世界(ジャンル)の法則を保持した空間を動き回ることによって、他の欲望と分裂的に交わり合いながらもおのれの欲望の線を引くことを諦めていないからである。それは具体的には、それぞれのスパイダー次元(映像ジャンル)に固有のリズムが、同一のビートに同期させられるのではなく、ポリリズミックに合成された状態で存在しているような本作の映像表現の特質のうちに現れている(スパイダー・ハムとペニー・パーカーが敵と戦闘するシーン)。

 こうした異質なリズムの重ね合わせ、異なる時間の共存を、全体としての欲望的生産力を失わずに組み上げるには、言うまでもなくCGアニメーションの高い技術(そこには手描きによるセルルックCGへの修正といった操作も含まれる)が要求される。コミック的な表現をアニメーションのうちで再現するためにあえて用いられたコマ落としの技法といったものでさえ、複数の世界がひとつの欲望するダンスを刻み続ける可能性を開くための、唯物論的な「アニメ・マシーン」としてそこでは機能している。 

『スパイダーマン:スパイダーバース』より © 2018 Sony Pictures Animation Inc. All Rights Reserved. | MARVEL and all related character names: © & TM 2019 MARVEL.

 相容れない複数のアイデンティティ、固有の個体性を帯びた無数の集団があることをいかにして倫理的義務においてではなく、欲望の流れの美学において肯定するか。そのような現代的課題に対してナラティヴの次元とは別に、ヴィジュアルの次元で答えることに成功した点で私は『スパイダーバース』を評価する。しかもその成功はより正確に言えば単純にヴィジュアルなものではなく、オーディオヴィジュアルなものなのだ。細馬宏通や黒嵜想の近年の仕事が示すとおり、聴覚的なものは、アニメにおける時間的経験の操作に深く関与する。アニメの速度と加速度の感覚はそこでつくられている、と言っても過言ではない──例えばまったくの止め絵でも早口でまくし立てるキャラクターがいれば画面内の速度は上がるだろう。

『スパイダーマン:スパイダーバース』より © 2018 Sony Pictures Animation Inc. All Rights Reserved. | MARVEL and all related character names: © & TM 2019 MARVEL.

 そのようなわけで、私は本作で用いられたCGアニメーション技術を細かく具体的に解説することをしない代わりに(それは残念ながら私にはできないということでもある)、そこで与えられた時間的経験のイメージを何か別のもの、例えばある種の音楽が与える経験のイメージに置き換えて示唆することにしたいと思う。私が念頭に置いているのは、ジューク/フットワークと呼ばれるクラブミュージックの一ジャンルである(*)。シカゴで生まれたゲットーハウスから派生したこのジャンルでは、非常にゆっくりとした基本となるテンポのビートにその2倍のテンポのビート、そして3倍のテンポのビートなどが複雑に絡み合う、ドラムンベースをさらに立体的にしたようなトラックが制作される。そしてそのリズムに合わせて足を高速で、ほとんど宙を歩くかのように動かす独特のダンス──これが特にフットワークと呼ばれる──が、ラップバトルのような対戦形式を伴ったものとして発展してきたことが大きな特徴をなす。『スパイダーバース』の音楽に直接フットワークが使われているわけではない。しかしポスト・マローンが歌う本作の主題歌「sunflower」を聴きながら、思うままグラフィティを描きたいという自身の欲望に向き合うことになる劇中のマイルス・モラレスの夢見る姿が、複数のスパイダーマンたちが無数のリズムを刻みながら画面を分裂的に横断していくのを夢見る、本作の観客である私たち自身の欲望に重なり合うとき、そこにはジューク/フットワークにおいてトラックとダンスが相互に交わし合ったのと同じ強度的欲望の生産が行われていないと、どうして言えるのだろうか。フットワークのリズムに特徴的なのは、速いビートが重ねられれば重ねられるほど、分裂的に、基本となるビートのほうは静止した、ゼロ度のリズムに近づいていくと感じられる点である。ジューク/フットワークの実験──すなわちある種の失敗したドラムンベースのように単一のビート(テンポ)に複数のリズムを同期させてそれぞれのリズムの個体性を潰してしまうことなく、リズムの複数化の限界(踊ることのできる限界)にまで赴こうとして、むしろ複数のビート(テンポ)の重ね合わせから単一のリズムを事後的に生成しようとする試みは、『スパイダーバース』の試みと同じ欲望を共有している。

 このような視聴覚的構造の類似性はもちろん暗示的なものに留まるだろう。それでも欲望機械は分裂的に、すなわちフットワーク的に作動する。そのように壊れ続ける仕方でしか作動しえないのが欲望機械だからだ。反動と麻痺に満ちたこの現実の世界で、なお何か新しいことが起きることへの希望を保ちつつ、多様性と普遍性の理想を信じ続けるための数少ない、安易ではないやり方。そういったものが、おそらくこの分裂的エンターテインメントの実験のなかには(密かに、それと知られることなく)含まれている。

映画『スパイダーマン:スパイダーバース』DVDジャケット

*──ジューク/フットワークの参考例として2つほど挙げておく。 https://www.youtube.com/watch?v=zzOG_v0ituY
https://www.youtube.com/watch?v=SWTsLnYO68U