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カミーユ・ピサロ

Camille Pissarro

 カミーユ・ピサロは1830年、デンマーク領セント・トーマス島(現・アメリカ領ヴァージン諸島)生まれ。印象派の中心的な画家のひとり。画家本人の温厚な性格を感じさせる素朴な風景画、肖像画や都市風景画を描いた。父はユダヤ系のポルトガル人で、実家の金物屋を営む。42年、フランス・パリに渡って寄宿学校に入学。47年に帰郷し、家業を手伝う。20歳のときに画家のフリッツ・メルビーと出会い、ベネズエラ旅行に同行。画家を志して父を説得し、55年に再びパリの地を踏む。同年に開催されていたパリ万国博覧会でギュスターヴ・クールベやカミーユ・コローの作品に感銘を受け、とりわけコローを手本に戸外制作を行う。

 59年に自主性を重んじるアカデミー・シュイスに入門。ここでクロード・モネやポール・セザンヌらと出会う。《モンモランシーの風景》(1858頃)でサロンに初入選。エドゥアール・マネの《草上の昼食》(1863)が注目された、63年の落選展では風景画3点を出品。同展をきっかけに、マネに賛同してモンマルトルのカフェ・ゲルボワに集まった芸術家や批評家からなる「バティニョール派」と交流する。70年を最後にサロンから離れ、仲間とサロンの影響が及ばない独立した展覧会を計画。「バティニョール派」のメンバーは「印象派」と呼ばれるようになる。

 70年に普仏戦争が勃発し、イギリス・ロンドンに避難。滞在中にウィリアム・ターナーやジョン・コンスタンブルの風景画を鑑賞する。戦後にルーヴシエンヌの自宅に戻り、その1年後にポントワーズに移住。同地の田園風景や農民の姿に、自身が描くべき主題を見出す。ピサロのもとには、若き才能をいち早く認めていたセザンヌやゴーギャンらが集まり、「ポントワーズ派」とも呼ばれる。74年に「第1回印象派展」に出品。メンバーで唯一、印象派展の全8回に参加する。83年にデュラン=リュエル画廊で開催した初個展が成功。商才には長けていなかったため経済的に不安定で、常々リュエルを頼りにしていた。

 84年、終生の住まいとなるエプト川沿いの小さな村に移住。この頃より、長男リシュアンと同年代のジョルジュ・スーラとポール・シニャックの新印象派に触発され、光学的理論に基づく点描法の研究に没頭する。最年長で人望も厚かったピサロだが、スーラとシニャックを印象派展に招聘したことから内部分裂を引き起こし、86年の第8回を最後に解散。また、ユダヤ人を糾弾したドレフュス事件が原因となり、友人のエドガー・ドガやピエール=オーギュスト・ルノワールと絶縁する。88年、印象派に原点回帰。一時は裸婦画に挑み、晩年にはパリやルーアン、ディエップ、ル・アーヴルを訪れ、都市を題材とした連作にも取り組む。パリでは、目の病気のために外出を控えていたこともあり、窓から町を見下ろすかたちで制作。工業化が進んでいたルーアンに残る旧市街、ディエップの港で活気づく人々、またル・アーヴルの天気の移ろいなどの描写を試みた。1903年没。