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2021.1.15

「翻訳」に潜む摩擦や欲望をいかにとらえるか。大岩雄典評「トランスレーションズ」展

「翻訳」をコミュニケーションのデザインとしてとらえ、情報学研究の立場からドミニク・チェンが企画した本展。「互いに異なる背景をもつ『わかりあえない』もの同士が意思疎通を図るためのプロセス」としての翻訳の可能性を考えようとする挑戦的な内容を、物語論や言語哲学への関心を軸として制作する、アーティストの大岩雄典がレビューする。

大岩雄典=文

Google Creative Lab + Studio TheGreenEyl +ドミニク・チェン
《ファウンド・イン・トランスレーション》(2020)の展示風景 撮影=木奥惠三
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キュレーションは翻訳なのか、それとも「静謐化」なのか

 21_21 DESIGN SIGHTで開催されているドミニク・チェンのキュレーションによる展覧会「トランスレーションズ」は、「翻訳」という言葉を比喩的に利用している。会場は、「伝えかたをさぐる」「体でつたえる」「昔とすごす」「モノとのあいだ」などのゾーンに分かれています。8つのゾーンはそれぞれカラフルな三角柱でゆるやかに区切られているが、この柱は作品の音を隔離しているわけではないので、それぞれのナレーションを聞き取ることは難しく、会場の内部はノイズで埋め尽くされていた。
 「ノイズ」という言葉は、空間デザインを担当した建築事務所の名前でもある「noiz」にも通じるもので、文字通りの意味(混沌とした音)と比喩的な意味(不確実性)の両方で「訳す」ことができます(*1)。

エラ・フランシス・サンダース《翻訳できない世界のことば》(2020)の展示風景 撮影=木奥惠三

 翻訳の性質としてのこの難しさは、例えばエラ・フランシス・サンダースの《翻訳できない世界のことば》とビデオ・ステートメント《トランス・ポート》を含む、「ことばの海をおよぐ」という領域で何よりも具体化されている。前者は世界各地の翻訳不可能な言葉の絵本からの抜粋であり、後者はチェンのキュレーションステートメントを言葉やフレーズごとに複数の言語に翻訳したものである。しかし同時に、Google Creative Lab+Studio TheGreenEyl+ドミニク・チェンによる《ファウンド・イン・トランスレーション》(2020)は、翻訳における言語の相互関係をグラフィカルに表現することで、翻訳の実用的な可能性とディープラーニング技術の限界を示唆しています(*2)。

Google Creative Lab + Studio TheGreenEyl +ドミニク・チェン
《ファウンド・イン・トランスレーション》(2020)の展示風景 撮影=木奥惠三

 翻訳とは、そのような不可能性と可能性のあいだで引き裂かれ、前者がイデオロギーに陥り、後者が実践のなかでかたちになることもあれば、その逆もある。エミリー・アプターの著書からタイトルを得た永田康祐の《Translation Zone》(2019)は、永田が「グローバル言語への欲望」と呼ぶ構造主義的な翻訳性、実用的な翻訳性、歴史的な非翻訳性のなかで、それぞれの地域文化の家庭料理のレシピの「翻訳」、つまり文字通りの「流用」がどのようなかたちをとっているのかを示している。この映像は、中国の炒飯、タイのข้าผวัด、インドネシアのナシゴレンなどのアジアの炒飯の構造的な相似性と文化的な側面での歴史的な違いをナレーションしたものである。このジレンマは「摩擦」と表現している。その理論的観察の後、音声は、これらの料理と名前が交錯するシンガポールの歌と、15世紀に中国からの移民とその子孫によってシンガポールにもたらされたプラナカン文化をルーツとするニョニャ料理を紹介する。本作品は、この「騒がしい」、つまり「クレオール」ゾーンでの生活習慣に焦点を当てています(*3)。

展示作品より、永田康祐の映像作品《Translation Zone》(2019)

 障害者のためのスポーツ感覚の「翻訳」、様々な「口述」装置、言いようのない奇妙な物体の手話による「表現」、微妙でプライベートな感情や経験のグラフィックな記録など、この「摩擦」やクレオール性は、私たちの身体やメンタリティ、あるいは個々の感情のあいだにも存在している。
 しかし本展では、「翻訳」という言葉自体が、本来「変容」や「表象」と呼ぶべきものを比喩するためにすでに利用されている。ユリアーネ・レーベンティッシュが言うように、すべての美的経験が本質的に表象的な記号による自己反省から成り立っているとすれば、本展はその恣意的な「ゾーニング」や分類と、キュレーションにおける「翻訳」という言葉自体の翻訳とのあいだにあるクレオール性の可能性や摩擦を批判的に反映させるべきだったのではないだろうか。

 縄文鍋の形や模様を現代の食器に転用したり、漬物の容器の状態を計算したり、人工的な匂いでサメを生理的に誘惑したりすることを自然に「翻訳」と呼び、キャプションに「翻訳」という言葉が引用符をつけられていることに気づくとき、それは「翻訳」という概念そのものを翻訳・解釈したいという欲求を反映していることに気づくだろう(*4)。 そして、その欲求こそがこの「メタファー」の根底にあるのだ。翻訳をテーマとする展覧会は、この欲望を反映し、翻訳の間を埋めるこの欲望をどのようにキュレーションが反映し、あるいは追従してきたのかを考えるべきであろう。

やんツー《鑑賞から逃れる》(2019)の展示風景 撮影=木奥惠三

 テーマとしての「翻訳」は、「翻訳」そのものの意味を恣意的に翻訳している。やんツーの《鑑賞から逃れる》(2019)のキャプションのどこにも「翻訳」という言葉は見当たらない。この不在(あるいはnoizのあの騒々しい空間)のなかで、翻訳の不可能性についてのシニカルな寓話を見るとき、私たちはすでにその空白を自分たちで埋めてしまっているのである。この展覧会では、この意味を満たす「セルフサービス」が、暗黙のうちに「翻訳」として機能しているのではないだろうか? あるいは、このような批評もまた、「翻訳」を恣意的にメタファー化したいという願望なのだろうか。

 それぞれの翻訳は、それが具体的な行為者のために、具体的な行為者によって、具体的な行為者のあいだでの生活実践であり、その騒々しさや摩擦が自分自身に反映されて初めて翻訳と呼ぶことができるのである。私たちは、それぞれの翻訳が、具体的な文脈のなかでの「イロクテーション的行為」であることを忘れてはならない。この展覧会には「『わかりあえなさ』をわかりあおう」というサブタイトルがついているが、この種のスローガンは、翻訳における理解と誤解のあいだの実践的な相互作用をすでにつねに楽観的に昇華させている。つまり、翻訳をメタファーに翻訳するのは、脱ノイズ化や静謐化なのである。
 このレビューは、一度英語で書かれたあと、DeepL が自動的に日本語に翻訳したものです(*5)。

*1──「noise」の語源はラテン語で船酔いを意味する「nausea」である。郷原佳以は、ミシェル・セールの論考のもと、ジャン=ポール・サルトルの『嘔吐(Nausea)』(1938)やオノレ・ド・バルザックの『知られざる傑作』(1831 )のなかの「La belle noiseuse」とnoiseとの語源的関係を論じている。郷原佳以「なんとなく、ノワズゥズ」『ユリイカ』2012年3月号特集「辞書の世界」(青土社)を参照。
*2──この翻訳のグラフィカルなイメージは、アントニ・ムンタダスの《On Translation》を彷彿とさせる。《The Internet Project》を彷彿とさせる。この作品でも、言語の相互関係を螺旋状に表現している。しかし、この螺旋状は任意の記号であるが、《ファウンド・イン・トランスレーション》の自動生成されたグラフィックは記号ではなく、メタコーパスの可視化である。そして、このグラフィックを中立的に考えたり、中立的に感じたりしないように注意しなければなりません。このメタコーパスは、各言語の単語やイディオムをベクトル化したものですが、この作業はGoogleが指示・可視化しています。
*3──また、動画のナレーションのクレオールっぽさにも注目してみましょう。ナレーションは日本人男性の声によるものと思われるが、ネイティブではないアクセントの英語であり、英語ではない単語は原語で発音されている(ネイティブではないアクセントがあるかもしれない)。このように英語のナレーションに刻まれたクレオール性は、現代アート、とくにナラトリアル・ビデオ・アートにおけるLingua Francaとしての英語の地位を反映している。
*4──伊藤亜紗+林阿希子+渡邊淳司の《見えないスポーツ図鑑》のプラクティスをなぜ「翻訳」と呼べるのか? この展示は、二つの練習をビデオで記録したものです。「感戦;試合を感じる」と「汗戦;試合を体験する」である。前者は、視覚障がい者と障がい者以外の人とのあいだで、スポーツの試合を見たときの感覚をどうやって伝えていくかを示しています。例えば、レスリングの試合を見るときには、タオルを1枚持っています。観戦する2人がそれぞれのレスラーを担当し、レスラーの動きに合わせて直感的にタオルを引っ張ったり引いたりすることで、視覚障害者に「試合の進行や力関係」を「身体感覚的なリズムや身体感覚に変換」して伝えるのである。この「翻訳」は文字通りの言語的なものではないが、「翻訳」と呼ぶにふさわしいものであることは認める。
 いっぽうで、縄文壺のコピーやサメの生理的刺激を「翻訳」と表現することには違和感を覚える。何が違うのだろうか? この直感的な違いは、私が望む「翻訳」という概念の翻訳に対応している。その意味では、「翻訳」という言葉自体が、このような自己表現の文脈の中で脱構築的なものである。
 後半でほのめかされたように、私の基準には仮説がある。翻訳とは、オースティン語的には、「illocutionary」であり、「perlocutionary act」である。感戦」では、実践者はこの「翻訳」の実践の可能性と限界の認識を共有しており、この有限性のなかで、表現可能な内容とその相互反射の表現の一種の役割を果たしている。しかし、サメの刺激や壺の形のコピーは、人間とサメ、あるいはそれぞれの壺の使用者の間で共有されている文脈を伝えるような内容を持っているわけではなく、また、少なくとも本展の展示では、この文脈の恣意性を反映しているわけでもないように思われる。翻訳とはつねに、翻訳行為そのものが利害関係者のあいだで起こる文脈の翻訳でもある。《汗戦》のビデオでは、そのような文脈がプロのアスリートによって反映されている。しかし、このような記述が「翻訳」を保証するほど中立的なものであるかどうか、また、この「理解」や「納得」のもとに排他的なプロフェッショナリズムを再現しているかどうかには注意を払わなければならない(professionは語源的にはラテン語の「profess」であり、宗教的信念の表明を意味します)。
*5──2021年1月4日にフリーライセンスで。もちろんタイトルや注釈も。しかし、固有名詞や引用の仕方、語源の説明などを例外的に修正した上で、編集者がガイドラインに沿って校正してくれました。 
 そこで、この文章について、何か報告しておかなければならないことがある。私の母語は日本語なので、英語の表現には不自然なところがあると思います(文法的なミスがなければいいのですが)。同時に、このレビューを書いている間、DeepL のプロトコルから発生する英語の「雑多さ」も常に感じています。一部のフレーズやニュアンスが無視されたり、反転したりすることが多いそのズレに対応するために、DeepL のインターフェイス上で表現の復元と変更を繰り返しました。書き換えは文法的な反省から判断したものもあれば、成功するまで「適当に」やってみたものもある。引用符や句読点の有無によって、変換された単語や文章が完全に変化することが多いが、これは文法的な変化ではなく、ユーザーにとってのブラックボックス化されたニューロネットワークによる再生成である。 
 むしろ、このようなブラックボックス化された同時翻訳では、私たちの言語は、自動翻訳のために翻訳しやすい異質な形に変換されていきます。それは、スマートスピーカーにうまく命令するために、言い換えを繰り返しているようなものです。このようなサービスの中では、私たちの自然言語は実行可能なコードに翻訳される運命にあります。 さらに言えば、永田氏の動画で示唆されているように、ユーザーが意図的に逸脱した教え方をすることで誤訳が学習されることもある。《ファウンド・イン・トランスレーション》のグラフィックの可視化を、もはや私たちは自然で中立的なものとして認識することはできない。 
 念のため、英語の原文のレビューは以下に残しておく。ところで、このサイト「ウェブ版美術手帖」では、日本語の記事を英語と中国語に自動翻訳するプラグインが用意されている。

Is curation is translation or ‘tranquilisation'?
 

An exhibition 'traNslatioNs', held at 21_21 Design Sight and curated by Dominique Chen, metaphorically exploits the term “translation”. The venue is separated into several zones: 'Search for Ways of Conveying', 'Transmit with Body', 'Living with the Past', 'Between Things' and so on. Each eight zones are loosely divided by colorful triangular prism pillars, but these pillars don’t isolate each sound of works so it was difficult to catch each narration: the internal space of venue was filled with noise.
'Noise' — this word also resonates the name of the architectural firm who was charge in the space design, ’noiz' — can be 'translated' both in literal sense(chaotic sound) and in metaphorical sense(uncertainty)(*1).
There is no noiseless translation.This difficulty as the nature of translation is instantiated above all in the area “Swim in the Ocean of Language” which includes Ella’ Frances Sanders’ ‘Lost in Translation' and a video statement ‘TRANS-PORT' for instance. The former is an extract from the picture book of untranslatable word around the world, and the latter is Chen’s curatorial statement translated into several language every word or phrase. Simultaneously, however, “Found in Translation”(2020)by Google Creative Lab + Studio TheGreenEyl + Dominique Chen, suggests the practical possibility of translation and on deep learning technology and its limit with a graphically expressed interrelations of languages in translation.(*2)
Translation is torn between such impossibilities and possibilities; sometimes the former falls into ideology and the latter take form in practice, and vice versa. 'Translation Zone’(2019)by Kosuke Nagata, whose title was derived on Emily Apter’s book, shows what forms in 'translation’, or say more literally, 'appropriation' of recipes of home cuisine from each local culture among structuralist translatability, which Nagata calls it 'desire for global language', the practical translatability, and historical untranslatability. This video narrates the structural semblance on cooking process and historical difference on cultural aspect between Asian ‘fried rice’ variants: 炒飯 in China, ข้าวผัด in Thai land, Nasi Goreng in Indonesia, and etc. This dilemma is expressed as ‘friction’. after that theoretical observation, the narrator’s voice introduces a Singlish song in which these cuisines and names intermingle, and Nyonya cuisine, which roots on Peranakan culture, which was brought into Singapore by Chinese immigrants in 15th century and their descendants. This work focuses such life practices in this ‘noisy', that is ‘creole’ zone.(*3)
This 'friction’ or creole-ness are also found in-between our bodies, mentalities or individual emotions in those zones: ‘Translation' of sport sensations for disabled persons, various ‘dictation' devices, sign language ‘expression’ of unspeakably strange object, and graphic recording of subtle and private emotions and experiences.
In this exhibition, however, the term ’translation’ itself is already exploited in order to metaphor what should be naturally called ’transformation’ or ‘representation’. As Juliane Rebentisch says, if all aesthetic experience essentially consist in self-reflectivity with its representational signs, this exhibition should have had supposed to reflect critically the possibility of creole-ness or friction between its arbitrary ‘zoning’ or classification and translation of the term ‘translation’ itself in a curation.
When we as if naturally call the appropriation of the shapes and patterns of Jomon pots into today tablewares or calculation of status of pickles in a container or physiological temptation of sharks by artificial smell ‘translation’ and when we find the word ’translation’ in their caption papers has quotation marks, we'll notice they are reflecting the desire to translate and interprete the concept ‘translation’ itself.(*4) And such desire is what this ‘metaphor’ is grounded on. Exhibitions on translation ought to cast a reflection on this desire, and how curation succeeds to reflect or have followed this desire which fills vacancy between those translations.
'Translation’ as the theme arbitrarily translates meanings of ‘translation’ itself. We couldn't see the word ‘translation’ anywhere in the caption of Yang02’s ‘Couldn’t Seen Well’. When we see even a cynical allegories on impossibility of translation within this absence(or that noisy space by noiz), we already filled this vacancy by ourselves. In this exhibition this meaning-filling ’self-service' can or should functions implicitly as ‘translation’, shouldn’t it? … Or, is also such this review a desire to arbitrarily metaphorize ‘translation’?
Each translation can be called translation only when it is life practice for/by/between concrete doers and its noisiness and frictions are reflected by themselves. We must not to forget that each translation is ‘illocutionary act’ in concrete contexts. The exhibition has a subtitle: 'Understanding Misunderstanding', but a slogan of this kind already always have optimistically sublimed the practical interplay between understanding and misunderstanding in translation. So it is de-noising or tranquilization what translates translation into metaphor.This review was automatically translated into Japanese by DeepL after written in English once.(*5)
 

*1 A word ‘Noise’ has Latin origin ‘Nausea’, which means seasickness. Kai Gohara argued etymological relation among noise and Sartre’s Nausea and La Belle Noiseuse in Balzac’s Unknown Masterpiece under Michel Serres’s discussion. Cf. Kai Gohara, ‘Somehow, noiseuse’ in Eureka 2012.3, Seidosha
*2 This graphical image of translation reminds us of Antoni Muntadas’s ‘On Translation: The Internet Project’. This work also shows image of interrelation of languages in a spiral shape. This spiral shape, however, is arbitrary symbol but ‘Found in Translation’’s automatically generated graphics are not symbol but visualization of metacorpus. And we should be careful not to think nor feel this graphic neutral. This metacorpus is based on vectorization of words and idioms in each language but this operation is directed and invisualized by Google.
*3 Also we can pay attention on the creole-ness of narration of the video. The narration, maybe dictated by Japanese male voice, is in English with non-native accent and not-English words are pronounced in original language (with maybe nonnative accent): 炒飯 or ข้าวผัด. This creole-ness inscribed in English narration reflects the status of English as Lingua Franca in contemporary art especially in narratorial video art.
*4 Why can I call practices in ‘Sports Guide Without Sight’ by Asa Ito + Akiko Hayashi + Junji Watanabe ’translation'? This display consists of video documentation of two practices: ‘感戦; feeling matches’ and ‘汗戦; experiencing matches’. The former shows how to manage to communicate between visually impaired persons and abled persons the feeling of seeing a sport match. For example in seeing wrestling, they hold one towel. Two persons who see the match are in charge of each wrestler and tug and draw the towel intuitively fitting the movement of wrestlers to communicate ‘the progress and power-negotiations of a game’ 'into physically-sensed rhythms and bodily sensations’. This ‘translation’ is not literally linguistic but I think it is adequately admitted to be called ‘translation’. On the other hands, I sense the incongruity in expressing Jomon-pots copying or physiological stimulation of sharks ‘translation’. What’s the difference? This intuitive difference corresponds to my desired translation of the concept ‘translation’. In this sense, the word ‘translation’ itself is deconstructive in such a context of its self-representation. As hinted in the latter part, I have a hypothesis for my criterion. In Austinian sense, translation is both ‘illocutionary' and 'perlocutionary act’. In ‘感戦’, the practitioners shares some promise and recognition of limit of this ‘translation’ practice, and within this finitude they do play a kind of representation of expressible contents and its inter-reflection. But shark-stimulation and copying of pot-shape seems to neither have such neither contents which convey contexts sharing between human and shark or users of each pots nor reflects critically of this arbitrariness of contexts, at least in the presentation in this exhibition. Translation is always also translation of the context which the translation act itself happens on between interested persons. In ‘汗戦’ video, such contexts are reflected by professional athletes. We must still pay attention , however, to how such description could be so neutral as to vouch the ‘translation’ or not and whether we reproduces exclusive professionalism under this ’understanding’ or ‘being convinced’. (‘profession’ have etymologically Latin origin ‘profess’, which means statement of religious belief.)
*5 On 2021 Jan. 4, with free license. Of course also the title and notes. But I exceptionally corrected about the proper noun and quotations, and some descriptions on etymology; and then the editors proofread some words to meet the guideline.
So I should report something about this writing. My mother tongue is Japanese and so my English should have some awkward expressions(I hope no grammar mistake). At the same time, during writing this review I always feel the ‘smatteringness’ in English generated by DeepL protocol too. To cope with its deviation that some phrase and nuances are often ignored or even inverted, I repeatedly restored and changed my expressions on DeepL interface. Some rewritings were judged on grammatical reflection but others were tried on just ‘at random’ until success. Presence or absence of quotation mark or punctuation often completely change the transformed words or sentences, but this is not grammatical change but re-generating by neuro-network black-boxed for users.
Rather, in such black-boxed simultaneous translation, our language is being getting transformed into differed form which is easy to translate for automatic translation. It is like that we repeatedly change an expression of saying to command a smart speaker. Within such services, our natural languages are being translated into executable code.
And furthermore, sometimes mistranslation is learnt by intentionally deviated teaching by users, as suggested in Nagata’s video. No longer we cannot naively recognize the graphic visualization in ‘Found in Translation’ natural and neutral.
Just in case I left the original English review below. By the way this website ‘Bijutsu-Techo Web’ carries automatic translation plug-in of Japanese articles into English and Chinese.

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