EXHIBITIONS
それは、つまり物を以って詩をつくることである
駒込倉庫でグループ展「それは、つまり物を以って詩をつくることである」が開催される。本展は、「ニュー・ブリティッシュ・スカルプチュア」の代表作家であるエドワード・アーリントン(1951〜2017)と、その教え子たちとの初めての合同展。アーリントンを中心に、さわひらき、髙田安規子・政子、杉浦亜由子、曽我英子、大木美智子、中島裕子、西永和輝の作品を展示する。
日本とゆかりの深い作家として知られるアーリントンは、1984年に東京国立近代美術館で開催された「メタファーとシンボル」展への参加や、フジテレビジョンギャラリーでの個展(1988)、また、ライフワークとして実践していた日本近代彫刻の研究(武蔵野美術大学とヘンリー・ムーア・インスティテュートとの国際共同研究)など、イギリスと日本を往来しながら活動。長年、ロンドン大学スレード校でも教鞭を執り、制作、執筆、教育を自らの活動の三本柱に据えていたアーリントンは、いずれの活動も広い意味において、彫刻と向きあう行為であると考えていた。
本展では、近年日本で目にする機会が少なかったアーリントンの作品やテキストを、アーリントンが教えた日本人作家であるさわひらき、髙田安規子・政子、杉浦亜由子、曽我英子、大木美智子、中島裕子、西永和輝らの作品とともに紹介。作品を一堂に会することで、かたちを変えながらも、時代や国を超えて継承されるものにも光を当てる。
アポロン神からプラスチックのパイナップルまで様々なモチーフを用い、独特の作風で数々の彫刻やドローイング作品を残し、記憶を主題に、オリジナルとは何かを問い続けたアーリントン。記憶、神話、再生といったテーマや、モノやフォルムへの人類学的アプローチは、アリトンの教え子の作品のなかにも見ることができる。
例えば、映像・立体・平面作品などで構成されたヴィデオ・インスタレーションを制作するさわひらきは、自身の心象風景や記憶をたよりに、実態のない、しかし確実に存在する感覚領域を表現してきた。同じように、名前のない感覚や実態のない祈りなどに着目する杉浦亜由子は、人々の意識にしみついた触覚やかたちを見る者に模索させる彫刻を制作。いっぽう、髙田安規子・政子は、トランプや切手など身近なものに手を加えることでスケールを転換し、私たちが拠りどころとする価値や基準を揺るがし、世界の見方を変えようとしている。
中島裕子も、身近な既製品やファウンド・オブジェを用いた立体作品を制作、ものを本来の機能やコンテクストから切り離すことで新しい言語を構築し、言葉だけではとらえきれない人間の内的世界の表現を試みている。曽我英子は、アイヌ文化を学ぶ活動を通して、資本主義、植民地主義や国家主義が生みだしてきた現代の価値観を見直すなかで、アイヌの着物「チカルカルペ」や鮭靴「チェプケリ」のつくり方を習得。自身でそれを再生することで得た知識や、出会う人びととの記憶をたどりながら、日常の些細なプロセスやはかない感覚的な側面が、集団性や文化発展といった大きな現象につながる様子を観察しながら制作している。
西永和輝は、「装飾芸術」への新しいアプローチを提案。地球上もっとも普遍的に行われてきた造形活動とも言える「装飾芸術」が、いっぽうで発達すればするほど機能性や生産性を損ない、不合理化していくという性質も持ちあわせている相反する在り方に注目し、「装飾は植物や癌細胞のように人の都合を顧みず成長する」というアイデアを提示している。
そしてイギリス在住の大木美智子は、ブラック・ライヴズ・マター運動やコロナ以降、いままでにも増して脱西洋中心主義や多文化主義を求める西洋文化において、改めて洋の東西を超えていくことの意味について考察している。
日本とゆかりの深い作家として知られるアーリントンは、1984年に東京国立近代美術館で開催された「メタファーとシンボル」展への参加や、フジテレビジョンギャラリーでの個展(1988)、また、ライフワークとして実践していた日本近代彫刻の研究(武蔵野美術大学とヘンリー・ムーア・インスティテュートとの国際共同研究)など、イギリスと日本を往来しながら活動。長年、ロンドン大学スレード校でも教鞭を執り、制作、執筆、教育を自らの活動の三本柱に据えていたアーリントンは、いずれの活動も広い意味において、彫刻と向きあう行為であると考えていた。
本展では、近年日本で目にする機会が少なかったアーリントンの作品やテキストを、アーリントンが教えた日本人作家であるさわひらき、髙田安規子・政子、杉浦亜由子、曽我英子、大木美智子、中島裕子、西永和輝らの作品とともに紹介。作品を一堂に会することで、かたちを変えながらも、時代や国を超えて継承されるものにも光を当てる。
アポロン神からプラスチックのパイナップルまで様々なモチーフを用い、独特の作風で数々の彫刻やドローイング作品を残し、記憶を主題に、オリジナルとは何かを問い続けたアーリントン。記憶、神話、再生といったテーマや、モノやフォルムへの人類学的アプローチは、アリトンの教え子の作品のなかにも見ることができる。
例えば、映像・立体・平面作品などで構成されたヴィデオ・インスタレーションを制作するさわひらきは、自身の心象風景や記憶をたよりに、実態のない、しかし確実に存在する感覚領域を表現してきた。同じように、名前のない感覚や実態のない祈りなどに着目する杉浦亜由子は、人々の意識にしみついた触覚やかたちを見る者に模索させる彫刻を制作。いっぽう、髙田安規子・政子は、トランプや切手など身近なものに手を加えることでスケールを転換し、私たちが拠りどころとする価値や基準を揺るがし、世界の見方を変えようとしている。
中島裕子も、身近な既製品やファウンド・オブジェを用いた立体作品を制作、ものを本来の機能やコンテクストから切り離すことで新しい言語を構築し、言葉だけではとらえきれない人間の内的世界の表現を試みている。曽我英子は、アイヌ文化を学ぶ活動を通して、資本主義、植民地主義や国家主義が生みだしてきた現代の価値観を見直すなかで、アイヌの着物「チカルカルペ」や鮭靴「チェプケリ」のつくり方を習得。自身でそれを再生することで得た知識や、出会う人びととの記憶をたどりながら、日常の些細なプロセスやはかない感覚的な側面が、集団性や文化発展といった大きな現象につながる様子を観察しながら制作している。
西永和輝は、「装飾芸術」への新しいアプローチを提案。地球上もっとも普遍的に行われてきた造形活動とも言える「装飾芸術」が、いっぽうで発達すればするほど機能性や生産性を損ない、不合理化していくという性質も持ちあわせている相反する在り方に注目し、「装飾は植物や癌細胞のように人の都合を顧みず成長する」というアイデアを提示している。
そしてイギリス在住の大木美智子は、ブラック・ライヴズ・マター運動やコロナ以降、いままでにも増して脱西洋中心主義や多文化主義を求める西洋文化において、改めて洋の東西を超えていくことの意味について考察している。