EXHIBITIONS
オノサト・トシノブ展
ときの忘れものは、アート・バーゼル香港2020で開催する「オノサト・トシノブ展」を前に、出品作品の一部をギャラリーで公開。油彩、水彩、版画およそ17点を展示している。
オノサトは、山口長男、吉原治良、瑛九、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家のひとり。戦前から親友の瑛九とともに前衛美術のパイオニアとして活躍した。1935年に二科展初入選と同時に前衛的傾向の若手作家と「黒色洋画展」を結成。38年に自由美術家協会会員となった(~1956、以後無所属)。
40年には、当時試みられることの少なかった構成主義の作品《黒白の丸》を発表し、第2次世界大戦従軍を経て、53年に瀧口修造の推薦でタケミヤ画廊にて初個展を開催。54年頃からの制作では円形を主題に、朱・黄・緑・紺の4色を基調として、画面全体を覆うモザイク風の方形群から円形が浮かび上がる幾何学的抽象様式を確立した。
60年代は、大きな円(丸)を精緻な正方形で分割し埋め尽くす作品に移行。これらの作品が海外でも高く評価され、61年にグレス画廊(アメリカ、ワシントンDC)で海外初の個展開催し、翌年に志水楠男が主宰した南画廊での個展も成功させた。63年に第7回日本国際美術展で最優秀賞(グランプリ)を受賞し、この後、64年と66年のヴェネチア・ビエンナーレに日本代表として出品するなど一躍現代美術の最前線に躍り出た。
アトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活を送ったオノサトの作品は、国内では東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館、東京都現代美術館など多くの美術館に収蔵されている。
オノサトは、山口長男、吉原治良、瑛九、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家のひとり。戦前から親友の瑛九とともに前衛美術のパイオニアとして活躍した。1935年に二科展初入選と同時に前衛的傾向の若手作家と「黒色洋画展」を結成。38年に自由美術家協会会員となった(~1956、以後無所属)。
40年には、当時試みられることの少なかった構成主義の作品《黒白の丸》を発表し、第2次世界大戦従軍を経て、53年に瀧口修造の推薦でタケミヤ画廊にて初個展を開催。54年頃からの制作では円形を主題に、朱・黄・緑・紺の4色を基調として、画面全体を覆うモザイク風の方形群から円形が浮かび上がる幾何学的抽象様式を確立した。
60年代は、大きな円(丸)を精緻な正方形で分割し埋め尽くす作品に移行。これらの作品が海外でも高く評価され、61年にグレス画廊(アメリカ、ワシントンDC)で海外初の個展開催し、翌年に志水楠男が主宰した南画廊での個展も成功させた。63年に第7回日本国際美術展で最優秀賞(グランプリ)を受賞し、この後、64年と66年のヴェネチア・ビエンナーレに日本代表として出品するなど一躍現代美術の最前線に躍り出た。
アトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活を送ったオノサトの作品は、国内では東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館、東京都現代美術館など多くの美術館に収蔵されている。



