EXHIBITIONS
粟津潔 デザインになにができるか
日本の土着的な風土を想起させるモチーフやイメージをもとに、独自のデザインを貫いたグラフィックデザイナー・粟津潔の回顧展が開催される。
粟津は1929年東京都生まれ。独学で絵とデザインを学び、55年のポスター作品《海を返せ》が日本宣伝美術会賞受賞。書籍の装丁や劇場のポスターを数多く手がけて、戦後日本のグラフィック・デザインを牽引し、さらにデザイン、印刷技術によるイメージの複製と量産自体を表現として拡張した。60年、建築家らとの建築運動「メタボリズム」に参加。77年、サンパウロ・ビエンナーレに《グラフィズム三部作》を出品。80年代以降は、象形文字やアメリカ先住民の岩絵調査を行う。2009年に逝去。デザインに自分自身の解釈を加えて見る者のイメージを膨らませ、伝えること、ひいては生きとし生けるものの総体のなかで人間の存在を問い続けた表現活動は、現在も影響力を持っている。
本展は、長男の粟津ケンを企画監修に迎え、粟津作品に貫かれる民衆へのまなざし、そして「社会をいかにデザインするか」という視点から、粟津のデザインの本質を明らかにするもの。「粟津潔」を通して日本の戦後デザインを振り返り、今日のデザインにつながる痕跡を探る。
さらに本展にあわせ、金沢21世紀美術館が調査してきた粟津潔アーカイブのデータベース全件公開し、一部の作品については作品画像のダウンロード利用を配信。展覧会というメディアを通して、複製こそヒエラルキーのない「民衆のイコン」であると唱えた粟津の精神を拡張することを試みる。
粟津は1929年東京都生まれ。独学で絵とデザインを学び、55年のポスター作品《海を返せ》が日本宣伝美術会賞受賞。書籍の装丁や劇場のポスターを数多く手がけて、戦後日本のグラフィック・デザインを牽引し、さらにデザイン、印刷技術によるイメージの複製と量産自体を表現として拡張した。60年、建築家らとの建築運動「メタボリズム」に参加。77年、サンパウロ・ビエンナーレに《グラフィズム三部作》を出品。80年代以降は、象形文字やアメリカ先住民の岩絵調査を行う。2009年に逝去。デザインに自分自身の解釈を加えて見る者のイメージを膨らませ、伝えること、ひいては生きとし生けるものの総体のなかで人間の存在を問い続けた表現活動は、現在も影響力を持っている。
本展は、長男の粟津ケンを企画監修に迎え、粟津作品に貫かれる民衆へのまなざし、そして「社会をいかにデザインするか」という視点から、粟津のデザインの本質を明らかにするもの。「粟津潔」を通して日本の戦後デザインを振り返り、今日のデザインにつながる痕跡を探る。
さらに本展にあわせ、金沢21世紀美術館が調査してきた粟津潔アーカイブのデータベース全件公開し、一部の作品については作品画像のダウンロード利用を配信。展覧会というメディアを通して、複製こそヒエラルキーのない「民衆のイコン」であると唱えた粟津の精神を拡張することを試みる。