ART WIKI
日本概念派
Japanese Conceptualists
1960年代半ばから70年代初頭にかけて展開した、日本のコンセプチュアリズムの動向を呼称する言葉。美術評論家の千葉成夫が『現代美術逸脱史 1945~1985』(晶文社、1986)の中でこの言葉を規定しており、その代表的な作家として、松澤宥、高松次郎、柏原えつとむらの名が挙げられている。同時期にアメリカで隆盛したコンセプチュアル・アートと併走するように、1964年6月1日、松澤は夢の中で「オブジェを消せ」という啓示を受け、言葉による作品を発表するようになった。これは、コンセプチュアル・アートの記念碑的作品である、ジョセフ・コスースの《1脚および3脚の椅子》(1965)が発表される1年前に起きた出来事であり、それゆえに、この動向はコンセプチュアル・アートの単純な「輸入」ではなく、日本独自の文脈から発生したものであることが強調されるようになった。
60年代半ばを代表する松澤の作品として、言葉が回遊式にレイアウトされた印刷物《プサイの死体遺体》(1964)を皮切りに、『美術ジャーナル』の誌面に広告として発表された《荒野におけるアンデパンダン’64展》(1964)、1967年から1年間、知人宛に発送された「ハガキ絵画」のシリーズなどがある。また展覧会としては、信濃美術館で行われた「美術という幻想の終焉」展(1969)、京都市美術館で行われた「ニルヴァーナ──最終美術のために」展(1970)などが知られている。
それらに続くかたちで、60年代前半にはハイレッド・センターとして「反芸術」の活動を展開していた高松が、60年代末から70年代前半にかけては《石と数字》(1969)、《この七つの文字》《These Three Words》(ともに1970)など、欧米のコンセプチュアル・アートの影響を受けた作品を発表。柏原は、「Mr. Xとは何か?」(1968-69)において制作過程を個から集団へと接近させる実験を行い、また「方法のモンロー展」(1973年)で「マリリン・モンロー」というアイコンを執拗に解体することによって「表現」の脱人称化を試みるなどした。
松澤から柏原へといたるこうした動きは、同時代に欧米で起きたコンセプチュアル・アートおよびミニマル・アートという「美術の極限化」(千葉)と比較されうるかたちで、日本概念派およびもの派を位置づけるという戦略的な布置でもあり、たとえば松澤自身は自らの表現を「観念美術」と呼ぶなど、必ずしも作家当事者が主体的に宣言したものではなかった点にもその特徴がある。
60年代半ばを代表する松澤の作品として、言葉が回遊式にレイアウトされた印刷物《プサイの死体遺体》(1964)を皮切りに、『美術ジャーナル』の誌面に広告として発表された《荒野におけるアンデパンダン’64展》(1964)、1967年から1年間、知人宛に発送された「ハガキ絵画」のシリーズなどがある。また展覧会としては、信濃美術館で行われた「美術という幻想の終焉」展(1969)、京都市美術館で行われた「ニルヴァーナ──最終美術のために」展(1970)などが知られている。
それらに続くかたちで、60年代前半にはハイレッド・センターとして「反芸術」の活動を展開していた高松が、60年代末から70年代前半にかけては《石と数字》(1969)、《この七つの文字》《These Three Words》(ともに1970)など、欧米のコンセプチュアル・アートの影響を受けた作品を発表。柏原は、「Mr. Xとは何か?」(1968-69)において制作過程を個から集団へと接近させる実験を行い、また「方法のモンロー展」(1973年)で「マリリン・モンロー」というアイコンを執拗に解体することによって「表現」の脱人称化を試みるなどした。
松澤から柏原へといたるこうした動きは、同時代に欧米で起きたコンセプチュアル・アートおよびミニマル・アートという「美術の極限化」(千葉)と比較されうるかたちで、日本概念派およびもの派を位置づけるという戦略的な布置でもあり、たとえば松澤自身は自らの表現を「観念美術」と呼ぶなど、必ずしも作家当事者が主体的に宣言したものではなかった点にもその特徴がある。
参考文献
千葉成夫『現代美術逸脱史 1945~1985』(晶文社、1986)