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美術予備校

 日本における美術予備校の始まりは、1904年に太平洋画会が仮研究所を設立したこと、ないしは1909年に川端玉章が川端画学校を設立したことにあるとされ、当初は予備校ではなく研究所と呼ばれていた。その後も本郷洋画研究所、同舟舎絵画研究所などが相次いで設立され、いずれも東京美術学校の教官が指導を行っていた。しかし、47年の国家公務員法制定で国立大学職員の副業が禁止されたことによって、研究所と大学の指導者は分離し、専属の講師が指導を行うという意味であくまでも入試の「予備機関」に限定したかたちでの美術予備校が誕生した。敗戦後から50年代半ばまでは阿佐ヶ谷洋画研究所(のちの阿佐ヶ谷美術学園)がその先駆けとなったが、美術予備校が本格的に産業化したのは、50年代半ばに御茶の水美術学院とすいどうばた洋画会(のちのすいどーばた美術学院)が設立されて以降のことである。

 60年代にはベビーブームによる受験者の増加とともに美術予備校が乱立し、入試倍率も急増したことによって、大学と予備校の間で実技の評価軸をめぐる駆け引きが行われるようになった。それに加えて予備校同士での競争も加速し、各予備校が他校との差別化を図るようになっていくなかで、新宿美術学院の「新美調」に代表されるような高度に様式化した指導が行われるようになっていった。しかし、こうした競争の片棒を担っていたはずの美術大学は、「自由」を志向する放任主義的な観点から予備校での指導を批判するようになり、対立・依存的なねじれ構造が出現するようになった。80年代には予備校の「様式」がはっきりと大学から敬遠されるようになり、90年代には予備校側によって指導の多様化が進められる。

 2000年代には大学と予備校の間で出題・評価を通じた共通理解の構築が進められたものの、2010年代以降は受験生の大幅な減少によって、2014年の代々木ゼミナールの事業縮小に代表されるような予備校の閉鎖も現実のものとなり始めている。このように、美術予備校は日本の特定世代の美術家らにとっては美大「前史」として深い影響を与える一方で、そのねじれ構造から歴史の表舞台には上がることなく忘却され続けてきた。しかし近年になって、実作者では中村政人や梅津庸一らが、研究者では荒木慎也らが美術予備校についての言及を積極的に行うようになり、美術史的な観点からその歴史化が進められている。

文=原田裕規

参考文献
『石膏デッサンの100年 石膏像から学ぶ美術教育史』(荒木慎也著、アートダイバー、2018)