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ブラック・マウンテン・カレッジ

Black Mountain College

 ジョン・アンドリュー・ライスらが1933年にノース・カロライナ州アッシュビルに創立し、実験的な芸術を基礎にしたリベラルアーツ教育を行った学校。プラグマティズム思想家、機能主義心理学者のジョン・デューイの教育論を基盤に、芸術を人文科学の中心に置く、ホリスティックなものだった。25年間存立し、57年に資金調達問題で閉鎖になった。

 学生には、ロバート・ラウシェンバーグ、サイ・トゥオンブリー、レイ・ジョンソン、ケネス・ノーランドがいた。講師は、美術、建築、音楽、ダンス、文学などの分野から、ウィレム、エレーヌ・デ・クーニング夫妻、ヴァルター・グロピウス、バクミンスター・フラー、ジョン・ケージ、マース・カニンガム、ジョセフ・アルバース夫妻、その他数多くの著名で一線の人材が揃い、とくに夏期スクーリングの「サマー・アート・インスティテュート」にはそうそうたる講師が集められた。

 33年のバウハウス閉校にともないアメリカに移住したジョセフ・アルバースは、建築家フィリップ・ジョンソンの紹介で、ここで教鞭を取ることになり、49年に離れるまでアートの主任として指導し、芸術的な才能を育む学校として名声を高めた。学校内では、バクミンスター・フラーと学生が、最初の大型ジオデシック・ドームを構築。マース・カニンガムはダンス・カンパニーを組織し、ジョン・ケージは最初の音楽のハプニングを行うなどした。50年代には、ケージらによる実験的パフォーマンスが行われるいっぽうで、詩人チャールズ・オルソンが学長となり、文学でも、ブラック・マウンテン派と呼ばれる詩人たちを輩出した。それがビートニクなど前衛文学運動につながっていった。アメリカ前衛詩でのオルソンの活動は重要な位置を占めている。

 ブラック・マウンテン・カレッジでの教育は、たんに芸術として実験的であったということにとどまらない。創立者のライスは、ナチス・ドイツによって閉校させられたバウハウスの教員だったアルバースらアメリカに移ってきたアーティストたちを雇用した。また人種差別が激しい南部にあって、44年には、黒人女子学生が夏期スクーリングに入学した。教育体制もユニークで、まず教員と学生は上下関係ではなく同じ地平にいた。ホリスティックな観点から、学生は農業や土木に従事し、炊事当番の義務もあった。また学生は組織運営の決定事項に参加することができた。専攻、学年、学位はなく、自分で卒業を決めることができ、そのため卒業者は少ないが、卒業の際には学業達成を証する手製の証明が与えられた。ブラック・マウンテン・カレッジでの教育は、その後、大学カリキュラムにも影響を与え、その思想が活かされている。

文=沖啓介

松浦寿夫、林道郎『ART TRACE PRESS 第3号 特集 Black Mountain College』(ART TRACE PRESS、2015)
ヴィンセント・カッツほか『Black Mountain College: Experiment in Art』(The MIT Press、2013)
フレデリック・A・ホロヴィッツほか『Josef Albers: To Open Eyes』(Phaidon Press、2009)