ARTISTS
パウル・クレー
Paul Klee
パウル・クレーは1879年、スイスの首都・ベルン近郊のミュンヘンブッフゼーに生まれる。父は音楽教師で、ベルンの小学校入学とともにヴァイオリンを習う。高校生のときにはベリン市管弦楽団員となり、その後の画家人生においても音楽と密接に関わる。高校卒業後の98年、ドイツ・ミュンヘンに渡り、ハインリヒ・クニルの画塾で絵を学ぶ。この頃、ピアニストのリリー・シュトゥンブフと出会う。1900年にミュンヘン美術アカデミーに合格するが、アカデミックな美術教育に順応できず、わずか1年で退学。帰郷し、ベルンの両親のもとで暮らす。
06年、婚約していたリリーと結婚。リリーをパトロンとし、ミュンヘンでの生活では主夫をこなしながら独学で制作を続ける。銅版画の連作「インヴェンション」をミュンヘン分離派展に出品。11年、友人の紹介でアウグスト・マッケやヴァシリー・カンディンスキーと交流し、カンディンスキー主催の「青騎士(ブラウエ・ライター)」の展覧会にデッサンや水彩画が展示される。14年にチュニジアを旅行。ヨーロッパにはない光や自然にふれ、色彩への関心を示し、生涯の主題としていく。第一世界大戦が勃発し、マッケら仲間が相次いで戦死。カンディンスキーが敵国ロシアに帰還して不在のなか、クレーの評価が高まる。
18年にドイツが敗戦、かわってワイマール共和国が発足。新体制のもとで美術学校「バウハウス」が創設され、ロシアから戻ったカンディンスキーらとともに教鞭を執っていたが、ナチスの迫害を受けてスイスに亡命。34年、『パウル・クレー 素描 1921-1930』(著=ヴィル・グローマン)刊行時にも、配本がゲシュタポに押収される。35年に皮膚硬化症を発症し、40年に死去。
クレーは、ロベール・ドローネーのオルフィスムに影響を受けたフォルムと記号による抽象的な作品、絵画と文字の融合を試みた詩的な文字絵、色彩と音楽を結びつけたポリフォニー絵画、太い線が際立つ晩年様式など、独自で多彩な表現形式を展開した。代表作に《パルナッソス山へ》(1932)、《かつて夜の灰色から浮かび上がった色彩文字》(1918)、《セネキオ》(1922)など。
06年、婚約していたリリーと結婚。リリーをパトロンとし、ミュンヘンでの生活では主夫をこなしながら独学で制作を続ける。銅版画の連作「インヴェンション」をミュンヘン分離派展に出品。11年、友人の紹介でアウグスト・マッケやヴァシリー・カンディンスキーと交流し、カンディンスキー主催の「青騎士(ブラウエ・ライター)」の展覧会にデッサンや水彩画が展示される。14年にチュニジアを旅行。ヨーロッパにはない光や自然にふれ、色彩への関心を示し、生涯の主題としていく。第一世界大戦が勃発し、マッケら仲間が相次いで戦死。カンディンスキーが敵国ロシアに帰還して不在のなか、クレーの評価が高まる。
18年にドイツが敗戦、かわってワイマール共和国が発足。新体制のもとで美術学校「バウハウス」が創設され、ロシアから戻ったカンディンスキーらとともに教鞭を執っていたが、ナチスの迫害を受けてスイスに亡命。34年、『パウル・クレー 素描 1921-1930』(著=ヴィル・グローマン)刊行時にも、配本がゲシュタポに押収される。35年に皮膚硬化症を発症し、40年に死去。
クレーは、ロベール・ドローネーのオルフィスムに影響を受けたフォルムと記号による抽象的な作品、絵画と文字の融合を試みた詩的な文字絵、色彩と音楽を結びつけたポリフォニー絵画、太い線が際立つ晩年様式など、独自で多彩な表現形式を展開した。代表作に《パルナッソス山へ》(1932)、《かつて夜の灰色から浮かび上がった色彩文字》(1918)、《セネキオ》(1922)など。