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狩野探幽
Tanyu Kano
狩野探幽は江戸狩野派の絵師。1602(慶長7)年、山城国(現・京都府)に生まれる。幼少の頃より画才があり、13歳で2代将軍・秀忠より祖父・永徳の再来と絶賛された。16歳で江戸幕府御用絵師となる。23(元和9)年に狩野家当主の貞信が夭折すると、弟の安信に宗家を継がせて狩野宗家を江戸に移し、自身は鍛治橋狩野家を興す。この年から、探幽は大坂城障壁画、続いて二条城障壁画といった大事業に携わる。そして33歳のときに完成させた名古屋城本丸上洛殿の障壁画によって、自らの様式を確立した。永徳が画面をはみ出すほどの圧倒的な迫力の造形表現を目指したのに対し、探幽は叙情をはらむ余白を重視し、安定感のある構図を意識した。翌年、探幽斎の号を称してからの四半世紀は、やまと絵を学び、写生や古画研究を重ね、さらに画域を広げていく。大徳寺の《山水図 襖》(17世紀)、《四季松図屏風》(17世紀)などの代表作はこの時期に描かれた。62(寛文2)年、還暦を迎えた探幽は、画家の最高位である法印に叙せられる。その後も創作意欲と探究心はまったく衰えることなく、さらにやまと絵や古画の学習に勤しむいっぽう、後進育成のための粉本や画帖の制作にも力を入れた。74(延宝2)年没。岡倉天心は探幽を「画壇の家康」と評した。