2018.7.23

「ピカソが僕を変えた」
横尾忠則、ピカソを語る。

2017年度エミー賞で10部門にノミネートされた『ジーニアス:世紀の天才アインシュタイン』に続く、ナショナル ジオグラフィック製作のオリジナル・ドラマ『ジーニアス』シリーズの第2弾『ジーニアス:ピカソ』が7月29日より放送される。今回のテーマは、20世紀を代表する世界的な天才画家パブロ・ピカソ。芸術を愛し、女性を愛し、自由を愛したピカソについて、ピカソと出会ったことで「画家宣言」を行った横尾忠則が語り尽くす。

聞き手=今井敬子(ポーラ美術館学芸課長) 構成=原田裕規 ポートレート撮影=稲葉真

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ピカソ展の行列が僕を画家にした

――横尾さんはピカソと深いつながりがおありと思いますが、とくに1980年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われた「ピカソ展」をご覧になられたことがきっかけで「画家宣言」をされることになりました。

 そうなんですよね。あんなにスケールが大きくて素晴らしいピカソ展はその後なかったんじゃないかな。なかにはあの《ゲルニカ》もあったんです。まだ作品がスペインに戻ってしまう前のことで、パリのピカソ美術館も開館前のことでしたね。

――作品があふれかえるほど、全館を使っての展示だったそうですね。

 デッサンも含めて1000点とも言われていました。なにしろ全館ピカソ一色ですからね。MoMAの周辺がお祭り騒ぎみたいに人であふれていました。でも美術館に入ってからも大変で、とても混んでいたためつねに前に人がいて、その人が移動しないと次の作品を見れないんですよ。

左から今井敬子、横尾忠則

――東京だと、モナリザが来日したときみたいな感じですね。

 そんな感じですね。とにかく前の人が動いてくれないと見れませんでした。でもそのおかげで僕は絵に転向できたんです。

――どうしてでしょう?

 前の人が動かないので、仕方なく絵をじっくり観ますよね。その間にいろんなことを観察するわけです。たとえばドローイングが並んでいるのを見ると、それぞれに日付が入っていて、よく見ると並んでいる作品の日にちが1日違いだったりするんですよね。それで驚いたのは、昨日描いた絵と今日描いた絵の様式が全然違うんですよ。それを見ていて「絵ってこれでいいんだ」と思いました。

 もともと僕も10代のころは画家を志望していたんですが、とにかく「自分の主題と様式を決めなきゃいけない」「それが作家にとってのアイデンティティだ」と言われていました。でもとんでもない。ピカソは「そんなアイデンティティなんて関係ない」とでも言っているかのようでした。それでだんだん解放されていくのを感じたんです。

 当時、僕はグラフィック・デザインをやっていて、そのときすでにワガママにやっていたつもりでいたんだけど、さらにワガママで無頓着にやっているピカソを見て「このままじゃ駄目だ」「やっぱり絵でないと僕の考える生き方はまっとうできない」と思いました。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

 そんな風にして、作品を見ながらグラフィックに対する関心がどんどん遠くに行ってしまって、反対に「新しい絵を描きたい」という気持ちがどんどんやってきました。冗談で言ってるんだけど、美術館に入ったときはブタだったのに、出るときにはハムの缶詰になっていたような感じです(笑)。それまでグラフィック・デザインは僕の天職だと思っていたんですよ。一生グラフィックをやっていくだろうと思っていました。でも、美術館の中でその気持ちがだんだん変化していって、出るころにはハムかソーセージになっちゃったみたいな感じですね。

横尾忠則

──面白い喩えですね(笑)。

 日本には「変化するのは悪徳だ」みたいな習慣がありますよね。でも、ピカソはそうじゃなく「変わることが人生だ」とでも言うようにどんどんどんどん変わっていくんですね。そのことに圧倒されて、ある種の啓示を受けたような気がしました。そのとき僕は45歳だったので、いまさら転向しても無理だと思ったんですけど、「いましかない」と思ってね。でも考えてみれば、45歳で芸術家に転向した人にはジャン・デュビュッフェやアンリ・ルソーもいるんですよ。

――そうなんですか。

 あとでわかったことですけどね。だから45歳というのは人生の変わり目なのかもしれません。

 それはそうと、僕はそれより前の1972年にMoMAで個展を開いているんですけど、そのときにもピカソ展とマチス展が行われていて、展覧会オープンの日にちが同じだったんですよ。

――すごい巡り合わせですね。

 ピカソ展とマチス展、そこからちょっと離れて横尾展(笑)。だから僕はピカソと勝手な関わりがあると感じているんです。ピカソ展とマチス展は2ヶ月で終わったんですけど、僕の展示は4ヶ月に延長されました。アンコールがあったんですね。

1980年に行われた「ピカソ展」のカタログ

ピカソの自由さに襲われた

――ピカソの作品をご覧になられていて、どのように思われましたか?

 もうね、気持ちの方が先行しているので落ち着いて絵を見られないんですよ。大げさな言い方ですが、絵を見ながら「いかに生きるか?」という問題に直面していました。だから冷静さを欠いているわけです。「ここはこういう風に描いているな」なんてまるで考えられないわけですね。目と脳が直結せずバラバラになっちゃっているような感じでした。頭でものを考えられなくなっているぶん、身体が考えて行動を起こそうとしていたんですね。

――ピカソがあまりに自由に生きていたために、ご自身の生き方に照らし合わせてみたのでしょうか?

 そうですね。だから「ピカソのような絵を描きたい」とは思っていないんですよ。僕がピカソの展覧会を見て画家に転向したので、あたかもピカソの表現に影響を受けたと思っている人もいるみたいだけど、そうではありません。あくまで生き方ですよね。ピカソの自由さ、いい加減さ、無手勝流、剽窃主義、詐欺師的(笑)。そういうものに全部襲われたんです。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

――私は美術館で働いていますが、館のコレクションとしてピカソが10代、20代の頃から80代後半ぐらいの頃までの作品があります。そのなかでもとくに晩年の作品は本当に面白いなと思いますが、晩年のピカソの不思議さ、自由さ、遊びの要素についてはどう思われますか?

 ピカソは91歳で死ぬわけだけれど、そのころになってやっと子供のような絵が描けるようになりました。だから80代で死んだんじゃ、ピカソも納得できなかったでしょうね。90代になってやっとああいう絵が描けた。子供は純粋で無垢で素朴で遊びの精神に満ちていますが、最終的にピカソは子供になろうとして実際になれたんじゃないですか。

――最近の横尾さんは「老いること」について『創造&老年』という本を出されてもいますね。もし、いまの横尾さんと同年代のピカソが対面されるとしたらどのようなお気持ちになるでしょうか?

 僕はまだピカソがなったような老人にはなりきれていないと思います。老人としてはまだまだ幼いですよ。

――これからでしょうか?

 ええ、老人になるために時間が足りないんですね。それとつい先日82歳になったんですが、老人になると不思議と自分の中から野心や野望や願望や夢や欲望や執着みたいなものが消えていくんですよ。若いころはそういうものを力に変えて創造していたんですが、80代になるとそういう社会的な概念がなくなっていくというか、どうでもよくなってくるんですね。そういう気持ちに50代ぐらいでなれればよかったんだけど、やっぱり80代にならないとそうなれないんですよね。でもピカソの作品を見ていると、もっと早くそういう気持ちになったんだと思います。30代か40代ぐらいのときにはもう老人になっちゃっていたんじゃないかな。いや、もしかしたら20代でね。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

――ずいぶん早いですね(笑)。

 だから、早く老人になることが大事だと思うんです。小林秀雄は59歳のときに「若者が持っているような考え方をしていたら、折角歳を取ったのに値打ちがない」というようなことを言っているんですよ。歳を取ることの値打ちについて、彼は59歳で言っているわけですね。だからね、彼もずいぶん早い時期に老人になったんだなと思います。そこまでくるともう怖いものなしですよ。他人の目は意識しなくなりますよね。僕の場合は80歳を過ぎてやっとそういう状態に近付きつつあるんだけど、ピカソはもっと若いころからそういう「老人意識」というか「子供意識」を持っていたんじゃないかと思います。

――つい先日横尾さんは『アホになる修行』という本も出されましたが、「アホ」という言葉もキーワードになりますか?

 「アホになる」というのは、社会的通念や規範から外れることですよね。そうして初めて「あいつアホだ」と言われるわけです。そこまでいかないと人間の悟性が見えてこないわけです。だけど美術の世界でも「誰々のどの時代がいい」とか言って判断することがあるでしょ。そういう判断はまったくナンセンスです。そういう風に絵を輪切りにして見ていちゃ何も見えてこない。だから学術的な知識や教養で絵を知ろうとしちゃだめですよ。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

ピカソから「逃れる」こと

――今回、ナショナル ジオグラフィック製作で公開されるドラマ『ジーニアス:ピカソ』では、ピカソの最初の奥さんであるオルガ・コクローヴァとの別れのシーンがありましたが、最初は彼女と離婚しようとしたピカソが、離婚してしまうと作品を半分持っていかれると聞いて「やっぱりやめる」と言うシーンがありました。ピカソにとって自身の作品は本当に大切なものだったのだということを改めて知らせてくれるエピソードで、完成後も何度も自身によって見直されていたピカソの作品が、1980年の回顧展で初めてその全貌を晒した。そして、その流れの中に横尾さんもいらっしゃったんだということを思うと、何だかすごいことだなと思いました。

 本当に魔が差したとしか言いようがありませんし、僕の人生の中にそういうことは計画されていませんでしたよね。グラフィック・デザインで安泰して、結構な身分のまま終わるのかなと思っていたらそう簡単にはいかず、運命の女神はやはりどんでん返しを起こしますね。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

――ドラマの中でも、ピカソの周りにいたいろんな人たちが翻弄される様子が描かれていますが、きっとピカソに出会ったが最後人生が変わってしまうんですね。

 それはその人の持っている宿命でもありますよね。生まれる前にそういったことがすでに約束されていて、ピカソを通して自分が変わることも含めてその人の人生にプログラミングされていたことだと思うんです。だからそういう意味では、ピカソはエージェントとか仲人みたいな存在で、いろんな人たちの目の前に現れては相手が引っくり返ってこけたりしながら変化していくわけです。ピカソと出会わなければよかったと思っている人もいっぱいいるし、出会ってよかったと思っている人もいる。僕の場合は、ピカソと出会っていなかったらしんどい人生を送らなくて済んだと思っていますね(笑)。でも、いまは「しんどい」が「快感」に変わりました。

――ピカソと出会ってしんどい目にあったのは奥さんや恋人たちばかりだと思っていましたが、横尾さんもそのひとりだったんですね(笑)。

 でも、そういうものは誰にも大なり小なり様々なかたちであるわけですよね。だから僕に限らずピカソの被害者はいっぱいいるわけですよ。そして、それは幸せなことだと思わなきゃいけない。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

――先ほど、ピカソの絵を見たことで脳や身体が動いて「変わっていく感じ」がしたと仰っていましたが、私は横尾さんの作品を繰り返し見ていて、いつも自分の頭が動くのが楽しいんです。作品からいろんな感情が湧き上がってくる感じがして、想いがとめどなく滝のようにつながっていきます。

 僕の絵で言いますと、例えばある絵を描いた同じ日に、もしかしたらまったく違う絵も描いていたかもしれない。そういったところはピカソの日々刻々と変化していく作品の原理・原則みたいなものを活用しているのかもしれないです。現にいまも僕は特定のスタイルを持っていないんです。今日描く絵と明日描く絵が全然違う場合がありますからね。

 僕は美術学校を出ていないのでわかりませんが、いままでの美術教育では学生にできるだけ早く特定の様式やテーマを持たせて「そうしないと評価されないよ」なんて言うわけですよね。僕はそういった評価そのものを自分の中から捨ててしまっているわけですね。もし評価されたいんだったら特定のスタイルをずっと続ければいつか評価してもらえるかもしれない。だけど僕はどこか無意識に「評価されるのが嫌だ」という拒絶反応が起こっている。この拒絶反応はピカソから影響されたDNAじゃないかなと思うんですよね。

自らの作品集を見ながら語る横尾

――その点で一貫されてますよね。横尾さんの絵は一切スタイルを掴めないので、感覚的に楽しみながら見るのにとても時間もかかるんです。横尾さんの作品はどれひとつ同じ絵じゃないですから。

 ひとつの時期は23ヶ月くらいは続くんだけども、テーマが変わるとまた違う表現に変わってしまうんですよね。それで最近はもう毎日違うスタイルで、午前中の絵と午後の絵も全然違います。

――何人も横尾さんがいるみたいですね。

 あるいは、何人もいるようで誰もいないみたいな? 「どんな絵ができるんだろう」という期待は自分にもあるんですが、絵が完成したときに「こんな風にできたんだ」って他人事みたいに思います。それに、そういう気分で描けることは僕にとっては楽ですね。特定の評価を捨ててしまっているので、絵が変な芸術至上主義的な方向に向かう可能性もないですしね。

 でも反対に一番ショックなのは、自分では違う絵を描いたつもりなのに、それを見た誰かが「この絵もこの絵も横尾さんですね」と言われることなんですよね。むしろ「これ誰が描いたんですか?」って言われるほうが、やっと自分から離れられたかなと思って嬉しくなります。だからまだ、何をやっても自分だって思われることに対する不安があるんです。「何者でもない状態」になれれば一番いいなと思うんですけど、なかなかなれないですね。死んでからそうなるのかはわかりませんが、残念ながらまだ生きている。なかなかなれない。

横尾忠則

――そのあたり、横尾さんはピカソを超えているような気がします。というのも、ピカソはある意味で自分というものを亡くなるまでしっかり持っていたように思っていましたので。

 「何をやってもピカソ」「線一本引いてもピカソ」と思われてしまうところがあるので、つねに自分との戦いだったんだと思いますよ。「ピカソじゃない線を引きたい」と思っていたかもわかりませんが、そう思うことでまた次のピカソを生んでいくことにもなったんでしょう。

――結局「ピカソ」になってしまうんですね。

 やっぱりそういうものだと思いますよ。死んでもピカソです。大なり小なり、それは誰でもそうなりますよね、誰にでも自我があるから。

 ピカソは自分の自我をすごく上手くコントロールしていたと思いますし、それと同時にとても強い自我の持ち主でした。きっとそこまで自我を強く持たないと、芸術の世界では駄目なんでしょうね。その証拠に「Post-Picasso」という展覧会ではいろんな人がピカソをオマージュしています。例えばアンディ・ウォーホルもピカソは「目の上のたんこぶ」だった。どう取り組んでもピカソのオマージュはピカソになってしまう。いっそピカソをそのまま模写しちゃえばピカソじゃなくなるんじゃないかと考えた。僕の作品もこの展覧会に出ているんです。ジャスパー・ジョーンズもピカソをもろに引用してますからね。

――まるでとんちみたいですね。

 反対にピカソもよくベラスケスやマネのオマージュをするじゃないですか。そのとき、相当な悪意を持って真似しているんですよ。相手の息の根止めてしまうくらい。誰かをオマージュするときにはそのくらいじゃないと駄目なんだと思います。

『ジーニアス:ピカソ』の撮影シーン ©National Geographic

「ピカソ」という壮大な自我/磁場

――そうした「戦い方」に関連する話として、ウォーホルがピカソに対峙するうえで、むしろピカソと同化することを選んだと仰っていたのが気になりました。それは「戦い方」としてのものでしょうか? それとも違うことについてのものでしょうか?

 ヨーロッパでは相対的にものを考えているので、例えばAさんとBさんがいると両者を戦わせようとするわけですよね。それに対して東洋では決して戦わないんです。むしろ相手とひとつになって同化することを選ぶ。そういった東洋的な人生観・歴史観が芸術をやる上では重要なんじゃないかと思いますね。ヨーロッパではすべてにおいて白黒はっきりさせますが、東洋では白黒はっきりさせないんですよね。白と黒を混ぜてグレーでもいいんだと。

――そのことと、ピカソの晩年や最近の横尾さんが目指されているような「自我を捨てること」は近しいところにある思考ですか?

 結局、僕たちは自我が捨てられないんです。だから絵を続けていくことができるんですよね。でも言い方を換えれば、もし自我を捨てられたら生きる必要もないんですよね。もう早いとこ死んじゃって、涅槃の不退転に行ってしまえばいいわけですからね。自我がある以上は、たとえ死んだとしても「返ってくる」という意味で転生の可能性もあるわけです。だから僕たちが生まれてくるということは、必ず何かの問題を抱えた未完の状態として生まれてくるんですね。それで生きている間にその問題をだんだん浄化させていって、完全に浄化できれば涅槃へ行けるんですけど、浄化できない未完の状態で死んでしまうことが大半なわけです。僕自身もいまその途上にいますし。

 偉い学者や哲学者や総理大臣や大統領も結局はみんな同じなんですよ。もし自我を全部捨てられるんだったら、この世に物質として存在することも不可能になるんですね。それは宇宙の原理が許さなくて、悟った人間を物質化させて置いておく必要はなくなるわけです。そうやって悟ると同時にその人は非物質化して、その姿が消滅してしまうわけです。つまり、生きる必要がないんです。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

――それでは横尾さんがピカソと出会われたことで「画家に転向しよう」と思われたのは、ある意味で横尾さんがピカソを通して横尾さんご自身と出会ったということにもなるのでしょうか?

 そうでしょうね。ピカソに出会うまでは自我の処理に困っていたんだと思います。だからピカソに出会うことによって、自我を処理する方向性が見えかけたんだと思います。

――それが先ほど、ピカソの作品ではなく「生き方」に衝撃を受けたとお話しされていたことなんですね。

 ピカソのように生きるといっても、いつも女を取っ替え引っ換えみたいな生き方は僕には自信がなくてしませんでしたが(笑)。というのも、彼女たちはピカソのために生まれてきた人たちでもあるんですよ。ピカソの芸術を昇華させるために生まれてきた女性たち。だけど、それと同時にピカソを通してあの女性たちもある種の修行をしていたのかもしれないですよね。それで、やっぱり修行って辛いものなんですよ。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

――なかでもピカソの恋人だったフランソワーズ・ジローは、芸術家としても開花しました。ピカソとジローの息子であるクロードは横尾さんとも交流がありますよね。

 クロードはクロードで苦労しているんですよ。個人的に会うと面白いくらい親父の悪口ばかり言っていますし。それで僕もどんどん親父の悪口を聞こうと思って話を聴いていたら、そのうちに悪口が自慢話になっていくんですよ。ついさっきまでピカソの悪口を言っていたのにですよ。

 あるとき、ニューヨークの日本食レストランで話をしていたら仲居さんがやってきて「このかたがピカソのお子さんですか?」と言って色紙を持ってきたんですよ。それでクロードはどうするのかなと思って見ていたら、ピカソそっくりな絵を描くんです(笑)。さっきまで親父の悪口を言っていたのに、親父から一歩も逃れられないし親父を利用してもいるわけですね。

横尾忠則

――ピカソから生き残ったフランソワーズ・ジローもいれば、うまく生き残れなかった女性もたくさんいるわけで、ご家族のなかにも不幸な目に遭った人はたくさんいらっしゃるわけですよね。『ジーニアス:ピカソ』では、エンディングで「ピカソの夢」として、みんなが抱き合って終わるという願望が描かれていたわけですが、おそらくご遺族の方々にとっての望みでもあったんでしょうね。でも、それを凌駕する悪いことがたくさんあって、許せないこともたくさんあった。

 アメリカのジャーナリストによるピカソの悪口ばかりを書いた本がありますよね。それを読むと、こきおろされているところも含めてピカソはすごく魅力的なんです。やっぱり芸術家というのは社会的な常識で見たときには異常者なんです。だけど僕からすると、いかにクレイジーになるかの勉強を、絵を描くことによって毎日しているような気もします。なんとかしてクレイジーになりたいと思うんだけどなかなかできない。ピカソほどの異常者にはなれないですからね。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

 それにその方法論もないわけですよ。とにかく自分の思ったこと以外は一切しないということしかないですね。自分がやりたいことをやり通すということは、我々の社会ではほぼ駄目なことになっていると思うんですよね。けど、そんななかでピカソはやろうとしていたわけですよね。だから僕たちがピカソを見るときに、「この絵は気持ち悪い」とか「気持ち良い」とかそんな見方じゃダメなんです。

 自分から遠く離れた風景を見るんじゃなく、その場所へ自ら出かけていって、もしかしたら危険な目に遭うかもしれないけれどそういう風にしていかないと、相手を理解したことにならないですよね。自分の体を通して理解するというのはそういうことで、やはり自分で出かけて行くことが必要になりますよね。

 

『ジーニアス:ピカソ』

横尾の人生を変え、いまなお多くのアーティストたちに影響を与え続けているピカソ。その波乱の人生をアントニオ・バンデラス主演で描く、大作ドラマ『ジーニアス:ピカソ』が、7月29日よりナショナル ジオグラフィックにて放送される。本作では、祖国スペインで過ごした少年期、フランスのパリで画家としての方向性を模索した青年期、名声を確立してもなお飽くなき挑戦を続けた壮年期など、91年に及ぶ長い人生の様々な時間軸を交差させながら、ピカソの人となりを紐解いていく。

『ジーニアス:ピカソ』キーアート
FORM IMAGINE ENTERTAINMENT ©National Geographic