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「ピカソが僕を変えた」
横尾忠則、ピカソを語る。

2017年度エミー賞で10部門にノミネートされた『ジーニアス:世紀の天才アインシュタイン』に続く、ナショナル ジオグラフィック製作のオリジナル・ドラマ『ジーニアス』シリーズの第2弾『ジーニアス:ピカソ』が7月29日より放送される。今回のテーマは、20世紀を代表する世界的な天才画家パブロ・ピカソ。芸術を愛し、女性を愛し、自由を愛したピカソについて、ピカソと出会ったことで「画家宣言」を行った横尾忠則が語り尽くす。

聞き手=今井敬子(ポーラ美術館学芸課長) 構成=原田裕規 ポートレート撮影=稲葉真

ピカソ展の行列が僕を画家にした

――横尾さんはピカソと深いつながりがおありと思いますが、とくに1980年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われた「ピカソ展」をご覧になられたことがきっかけで「画家宣言」をされることになりました。

 そうなんですよね。あんなにスケールが大きくて素晴らしいピカソ展はその後なかったんじゃないかな。なかにはあの《ゲルニカ》もあったんです。まだ作品がスペインに戻ってしまう前のことで、パリのピカソ美術館も開館前のことでしたね。

――作品があふれかえるほど、全館を使っての展示だったそうですね。

 デッサンも含めて1000点とも言われていました。なにしろ全館ピカソ一色ですからね。MoMAの周辺がお祭り騒ぎみたいに人であふれていました。でも美術館に入ってからも大変で、とても混んでいたためつねに前に人がいて、その人が移動しないと次の作品を見れないんですよ。

左から今井敬子、横尾忠則

――東京だと、モナリザが来日したときみたいな感じですね。

 そんな感じですね。とにかく前の人が動いてくれないと見れませんでした。でもそのおかげで僕は絵に転向できたんです。

――どうしてでしょう?

 前の人が動かないので、仕方なく絵をじっくり観ますよね。その間にいろんなことを観察するわけです。たとえばドローイングが並んでいるのを見ると、それぞれに日付が入っていて、よく見ると並んでいる作品の日にちが1日違いだったりするんですよね。それで驚いたのは、昨日描いた絵と今日描いた絵の様式が全然違うんですよ。それを見ていて「絵ってこれでいいんだ」と思いました。

 もともと僕も10代のころは画家を志望していたんですが、とにかく「自分の主題と様式を決めなきゃいけない」「それが作家にとってのアイデンティティだ」と言われていました。でもとんでもない。ピカソは「そんなアイデンティティなんて関係ない」とでも言っているかのようでした。それでだんだん解放されていくのを感じたんです。

 当時、僕はグラフィック・デザインをやっていて、そのときすでにワガママにやっていたつもりでいたんだけど、さらにワガママで無頓着にやっているピカソを見て「このままじゃ駄目だ」「やっぱり絵でないと僕の考える生き方はまっとうできない」と思いました。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

 そんな風にして、作品を見ながらグラフィックに対する関心がどんどん遠くに行ってしまって、反対に「新しい絵を描きたい」という気持ちがどんどんやってきました。冗談で言ってるんだけど、美術館に入ったときはブタだったのに、出るときにはハムの缶詰になっていたような感じです(笑)。それまでグラフィック・デザインは僕の天職だと思っていたんですよ。一生グラフィックをやっていくだろうと思っていました。でも、美術館の中でその気持ちがだんだん変化していって、出るころにはハムかソーセージになっちゃったみたいな感じですね。

横尾忠則

──面白い喩えですね(笑)。

 日本には「変化するのは悪徳だ」みたいな習慣がありますよね。でも、ピカソはそうじゃなく「変わることが人生だ」とでも言うようにどんどんどんどん変わっていくんですね。そのことに圧倒されて、ある種の啓示を受けたような気がしました。そのとき僕は45歳だったので、いまさら転向しても無理だと思ったんですけど、「いましかない」と思ってね。でも考えてみれば、45歳で芸術家に転向した人にはジャン・デュビュッフェやアンリ・ルソーもいるんですよ。

――そうなんですか。

 あとでわかったことですけどね。だから45歳というのは人生の変わり目なのかもしれません。

 それはそうと、僕はそれより前の1972年にMoMAで個展を開いているんですけど、そのときにもピカソ展とマチス展が行われていて、展覧会オープンの日にちが同じだったんですよ。

――すごい巡り合わせですね。

 ピカソ展とマチス展、そこからちょっと離れて横尾展(笑)。だから僕はピカソと勝手な関わりがあると感じているんです。ピカソ展とマチス展は2ヶ月で終わったんですけど、僕の展示は4ヶ月に延長されました。アンコールがあったんですね。

1980年に行われた「ピカソ展」のカタログ

ピカソの自由さに襲われた

――ピカソの作品をご覧になられていて、どのように思われましたか?

 もうね、気持ちの方が先行しているので落ち着いて絵を見られないんですよ。大げさな言い方ですが、絵を見ながら「いかに生きるか?」という問題に直面していました。だから冷静さを欠いているわけです。「ここはこういう風に描いているな」なんてまるで考えられないわけですね。目と脳が直結せずバラバラになっちゃっているような感じでした。頭でものを考えられなくなっているぶん、身体が考えて行動を起こそうとしていたんですね。

――ピカソがあまりに自由に生きていたために、ご自身の生き方に照らし合わせてみたのでしょうか?

 そうですね。だから「ピカソのような絵を描きたい」とは思っていないんですよ。僕がピカソの展覧会を見て画家に転向したので、あたかもピカソの表現に影響を受けたと思っている人もいるみたいだけど、そうではありません。あくまで生き方ですよね。ピカソの自由さ、いい加減さ、無手勝流、剽窃主義、詐欺師的(笑)。そういうものに全部襲われたんです。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

――私は美術館で働いていますが、館のコレクションとしてピカソが10代、20代の頃から80代後半ぐらいの頃までの作品があります。そのなかでもとくに晩年の作品は本当に面白いなと思いますが、晩年のピカソの不思議さ、自由さ、遊びの要素についてはどう思われますか?

 ピカソは91歳で死ぬわけだけれど、そのころになってやっと子供のような絵が描けるようになりました。だから80代で死んだんじゃ、ピカソも納得できなかったでしょうね。90代になってやっとああいう絵が描けた。子供は純粋で無垢で素朴で遊びの精神に満ちていますが、最終的にピカソは子供になろうとして実際になれたんじゃないですか。

――最近の横尾さんは「老いること」について『創造&老年』という本を出されてもいますね。もし、いまの横尾さんと同年代のピカソが対面されるとしたらどのようなお気持ちになるでしょうか?

 僕はまだピカソがなったような老人にはなりきれていないと思います。老人としてはまだまだ幼いですよ。

――これからでしょうか?

 ええ、老人になるために時間が足りないんですね。それとつい先日82歳になったんですが、老人になると不思議と自分の中から野心や野望や願望や夢や欲望や執着みたいなものが消えていくんですよ。若いころはそういうものを力に変えて創造していたんですが、80代になるとそういう社会的な概念がなくなっていくというか、どうでもよくなってくるんですね。そういう気持ちに50代ぐらいでなれればよかったんだけど、やっぱり80代にならないとそうなれないんですよね。でもピカソの作品を見ていると、もっと早くそういう気持ちになったんだと思います。30代か40代ぐらいのときにはもう老人になっちゃっていたんじゃないかな。いや、もしかしたら20代でね。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

――ずいぶん早いですね(笑)。

 だから、早く老人になることが大事だと思うんです。小林秀雄は59歳のときに「若者が持っているような考え方をしていたら、折角歳を取ったのに値打ちがない」というようなことを言っているんですよ。歳を取ることの値打ちについて、彼は59歳で言っているわけですね。だからね、彼もずいぶん早い時期に老人になったんだなと思います。そこまでくるともう怖いものなしですよ。他人の目は意識しなくなりますよね。僕の場合は80歳を過ぎてやっとそういう状態に近付きつつあるんだけど、ピカソはもっと若いころからそういう「老人意識」というか「子供意識」を持っていたんじゃないかと思います。

――つい先日横尾さんは『アホになる修行』という本も出されましたが、「アホ」という言葉もキーワードになりますか?

 「アホになる」というのは、社会的通念や規範から外れることですよね。そうして初めて「あいつアホだ」と言われるわけです。そこまでいかないと人間の悟性が見えてこないわけです。だけど美術の世界でも「誰々のどの時代がいい」とか言って判断することがあるでしょ。そういう判断はまったくナンセンスです。そういう風に絵を輪切りにして見ていちゃ何も見えてこない。だから学術的な知識や教養で絵を知ろうとしちゃだめですよ。

『ジーニアス:ピカソ』より ©National Geographic

編集部